「交響曲第41番『ジュピター』の最後はケルンの大聖堂のようだ」と、グラズノフは表現した。というくだりが、ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫・訳 中公文庫1986年)のなかにある。いろいろと問題のある本で、これからの世代が手に取る姿がまったく想像できないけれども、『ジュピター』がケルンの大聖堂とは素晴らしい喩えだ。こうした言葉までひっくるめて読まれなくなってしまうのは、あまりに惜しい。
今でこそ、誰もがモーツァルトと言うけれども、19世紀の音楽家が今日の様子を見たら、どうしてあんな古いものが、と驚くかもしれない。リムスキー=コルサコフにとって百年前のモーツァルトはそうとう古い作家だった。あのシューマンにとっても、五十年前の音楽はそうとう古く、縁のないものだった。演奏機会も多くなく、グラズノフやワーグナーのようにモーツァルトを熱愛する作家も少なかった。彼らからすれば、二百年以上前の音楽を毎晩のように聴き、百年を超える音楽を「現代音楽」と呼んでいるわたしたちの姿のほうが、よほど滑稽に映るかもしれない。
さて、『冗談』第四楽章の主眼は、なんといっても29小節目から始まるフーガである。『ジュピター』のフーガが「ケルンの大聖堂」であるならば、『冗談』のフーガは「がらくたで作った大聖堂」であると喩えるのが良いだろうか。
和声的禁則に遊んだソナタ楽章、コスチュームを間違えた舞曲、いつまでたっても縦が合わない緩徐楽章を経て、彼は、建築にはまったく不向きな資材で建築をはじめてしまう。晩年の彼が熱中したバッハの研究成果でもあるフーガの技術でケルンの大聖堂を建てるかたわらで、まったく同じ技術を使って、隣の敷地に妙なものを建てはじめるのだ。
とは言え、『ジュピター』のようにいきなりフーガの主題で始めるようなことはせず、彼は導入的な第一段を置いている。ディヴェルティメントとしての性格を損なわないようにするためだろうか。いや、29小節目からのフーガを聴く聴き手に「そう来たか」と思わせるためかもしれない。あるいは、28小節目まで書いたところで「フーガにしろよ」と(笑いの)神が降りてきたのかもしれない。
この第一段は、例によって「連続する3度を置いただけのもの」を使っている。しかし、彼はもう必要以上の和声的禁則に遊んだりしない。I度~IV度~V度から平行調へと、通常的な連結の上に乗せられている。11小節目からは自然なまでの反復進行で、あっという間に変イ長調まで飛んでいく。14小節目に現れる同主短調固有のV度「ド・ミ♭・ソ」は、この作品ではじめて現れる和声的語彙であるのだが、わたしたちも、もう、そんな小さなことを気にしなくなってしまった。
では、問題のフーガに移ろう。
先ほどから『ジュピター』のフーガを挙げているが、Kv.387の弦楽四重奏『春』の最終楽章もフーガで書かれている。『冗談』の主題は、これら二つの作品の主題と非常に似た外見を持っている。一つには、四小節構造であること。二つには、全音符であること。譜例に示したので比較していただきたい。
『冗談』の場合、3小節目に八分音符による修飾が施されているが、これは「ファ、ラ、ソ、ファ」と要約できる。さて、この主題は以下の三つの点において興味深い。
一点目には、3小節目の八分音符による修飾がフーガ主題全体を要約した音型の短縮形になっていることだ。マトリョーシカのような「おもちゃ感」だが、このミニ主題は非常に邪魔だ。このままの姿でストレットを書こうものなら、何が何やらわからなくなる。
二点目には、この主題は「ファ」から「ファ」へと四小節間で行って帰ってくるだけで、I度~I度~V度~I度以外の連結を基本的に受け付けない。『春』のようにV度調にも向かわないので、和声的な可能性が極端に少ない。
三点目には、この主題を反行形にしても逆行形にしても、さらに反行の逆行形にしても、大して音楽的に変化がないということ。『春』のように不断に連続しゆく多彩な変化も、『ジュピター』の展開部における圧倒的なストレットも、反行形を用いた素晴らしいコーダへの導入も、以上三点の理由によってその道は閉ざされる。
つまり、対位法的に全く可能性のない主題、致命的な主題なのである。
『ジュピター』と『春』は展開の途上に現れた副次的な主題によって最終的には二重フーガに至るという共通点があるが、もちろん『冗談』の主題では不可能だ。
にもかかわらず、決定的にフーガ向きではないこの主題を、彼は無理を承知で無理やりフーガに仕立ててしまう。構造的に欠陥があることを悪用して、ずたずたに寸断されたフーガとして。しかも34~35小節目のバスにあるように、掛留される主音のようなフーガ的語彙をしっかり利用した上で。
「このままの姿ではストレットは不可能だ」と書いたが、彼はそれさえやってのける。64小節目からの第一ヴァイオリン「レファミソ」は「レファミレ」の変化した形で、これは主題の短縮形と言える。68小節目からの「レミファレ」も主題の短縮形の逆行形だ。それはそのままオクターヴ下の第二ヴァイオリンに二小節遅れで受け渡されストレットになり、72小節目にはヴィオラとバスにも渡される。
続く76小節目は一見無関係なものに見えるが、これは主題の四小節と和声を同じくしていて、やはり関連がある。この76小節目からの形は、92小節目から転回する形でそのまま4回繰り返され、推移となる。
ところで、モーツァルトの音楽の最たる魔術とは、和声の転回形だけで全く違う世界、違う境地にまで導いていけることにある。何度か転調しなければ導き出せないような世界を、モーツァルトはたった一つか二つのカデンツでやってのける。カデンツの捉え方がまさしく魔術的なのである。
彼は『冗談』においても、イ短調の、しかもI度とV度しか含まれていないカデンツをただ転回させ続けるだけで、確実に108小節目以降の新たな部分を導き出す。これは彼の常套的な手段と言えるものだ。
108小節目は、例の「連続する3度を置いただけのもの」がまた使われる。この楽章の冒頭では通常的な連結の上に置かれたが、ここでは、一オクターヴと5度にまたがる音階をヴァイオリンが下行していき、その動きに反行するようにヴィオラとバスが四倍の音価で上行していく。第一楽章よりいっそう大胆な「並行和音」で、作品中でも屈指の、ナンセンスな和声進行をする場所だ。ただその後、この「連続する3度を置いただけのもの」は和声的な変化を持たせないまま拡大、逆行、繰り返しと数に遊び、カデンツまで持っていく。ここでぜひ思い出していただきたいのはKv.492『フィガロの結婚』序曲だ。
このように、冷静に観察すればするほど、この楽章は彼の「本来の創作」で満たされている。どこからが冗談で、どこまでが冗談ではないと分類できるようなものはなく、がらくたを材料にいつものように作ったというほうが、この楽章を正しく表現できる。その意味で、ちょうど第三楽章とは好対照をなしていると言うこともできるが、この楽章はいっそう紙一重だ。揶揄されるような「無学な音楽家」なら、どんなに可能性のあるフーガの主題を渡されてもその可能性に気付けないことだろうが、彼は可能性のまったくない主題にも可能性を見つけて、「これはフーガである」と人に思わせることができるのだから。
この楽章の後半は繰り返しであるので、以上で一応はひととおりの素材に触れた。あまりに煩雑になってしまうから、もっとたくさん散りばめられているネジのように小さな「がらくた」について、そのひとつひとつを取り上げ解説することは、控えておこう。
ここに書いてきたような理論的なあれこれを、彼が眉間にしわを寄せ、頭を抱えながら書いたとは、さすがに僕も思わない。夜な夜なニヤニヤしながら書いたのだろう。とは言え、大真面目にふざけたことをするのが作家の魂というものだ。「同時代の半可通な作曲家たちを揶揄するため」だの、「下手な演奏家や不備だらけの写譜屋を皮肉るため」だの、その程度の理由で20分強の楽譜を埋めるなど、まったくもって面白くない。
音に遊び、音に戯れ、音を変形させることに専心すると、音楽のほうから何かを主張してくることがある。作曲家が思いもしなかった世界を音が聴かせてくれることがある。それこそが面白いものだ。理論の進化、機能の拡張とは、そのようにして音そのものが作曲家たちに見せてくれた音楽世界の拡がりのことを指すのである。
ときに、モーツァルトは自分にとってもまったく不慣れな方法でこの曲を書いたため、その成長(「いっそうダメな音楽を書けるようになる」という、妙な成長だが)の痕跡がくっきり遺されることになった。各楽章の内容にはこれだけの差がある(にもかかわらず、通して聴くとそれなりに統一感を感じるので、さすがモーツァルトと、こちらも妙な感心をするが)のを観察したが、この曲だけが特別なのではない。彼はいつも、なにかひとつの曲を書くたびに、何かしらを音楽に教えてもらい、成長している。その成長は彼が死んだ後も、ワーグナーのなかで、グラズノフのなかで、わたしたちのなかで、実はひそかに続いているのだ。
などという、こんな「くさい」結論など彼も期待していないに違いないだろうから、ここは最後の不協和音を譜例に示し、がらくたの積み上がった大聖堂をばらばらに爆破してから、お開きにすることとしよう。(おわり)