とある酒の席での話。
「作曲をしているあなたに言うのも失礼だけど、もう音楽の可能性は出尽くされてしまった。バッハのような天才など二度と現れまい」と、僕の目の前に座った老人が嘆く。僕の曲を聴いてそれを仰ったのなら批判とも皮肉とも受け取れたので、素直に「ごめんなさい」と言うこともできたのですが、僕はただ「作曲家です」と自己紹介をして彼の前に座っただけ。で、これを言われた。
バッハの後に生まれたモーツァルトもベートーヴェンもショパンもブラームスもみーんな天才とは呼べないということですね。という嫌味は胸にしまいましたけれども、僕はこれを心ひそかに末法思想と呼んでいます。さぞかし現代音楽は濁世を象徴するものと聞こえてらっしゃることでしょうが、紀元前から続く音楽という営みを、もう少し信頼していただきたいところです。
12個しか音がない。ということに、ひどく心配される方々がいらっしゃいます。メロディの可能性は非常に少ないのではないか。音楽の可能性は出尽くされてしまったのではないか。そうした言説は折にふれて現れ、もっともらしく思われもしています。たしかに12音という数字は日本語の五十音表より頼り無さそうです。ただ、冷静に考えれば、我々は音楽の音のひとつひとつを取り出して「ソ」「ソ」「ソ」「ミ♭」と聴いているわけではありません。「ソソソミ♭」までをひとつのまとまりとして聴いています。言葉だってそうです。ひらがなひとつで通じる街の名前は「津」ぐらいです。動機やメロディというものもまた音程と音程の関係によって成り立っているのであって、作曲家も当然、その「まとまり」を書くことになります。
4音の動機を作るのに、「ドドドド」から「シシシシ」までいくつの可能性があるのかといえば、これは単純に12を4乗すれば答えが導き出されます。すなわち、20,736通り。図にして示しました。ベートーヴェン『運命』の「ソソソミ♭」は、この図で言えば「7773」。ベルク『ヴォツェック』の「Wir arme Leut(自分たち貧乏人には)」は「3B47」。
ある作曲家がこれから書く4音の動機を予想して当てる、というのが、仮に賭け事になったとしたら、これは数字選択式宝くじ「ナンバーズ4」のストレートよりも難しい、ということになります。
モーツァルト『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の第1ヴァイオリンが弾く冒頭から10小節目までのメロディは60音あります。60音を使うメロディの可能性は、単純計算で12の60乗。阿僧祇や那由多という単位など軽く超えるでしょう。これはオクターヴの関係、拍子やリズム、テンポ、楽器法やオーケストレーションを一切無視した数字であって、それらの要素を付け加えればさらに膨れ上がりますし、もちろん、動機は4音でなければならない、メロディは60音でなければならない、などという決まりはどこにもありません。
12音技法の場合、音列の可能性は12の階乗になりますから、1×2×3×…12=479,001,600通り。同じ音を重複させずにすべて使うというルールのため、かえって可能性が少なくなるわけですが(と言っても5億近くありますけど)これはシェーンベルク先生が、彼が研究し尽くした古典の果実とコミュニケートするため、あえて手段を絞ったものと解すべきでありましょう。
「ドドドド」と「シシシシ」は移置によって同等の音列と言えますが、移調によって同じ動機とは限りません。単純な移調を勘定に入れる必要はありませんが、「箸でご飯を食べた」と「橋で」「端で」は意味が違ってしまうというようなことが和声の機能によって起こるので、この場合、作曲家のなかで同じ意味を持っているとは言えないでしょう。「ソソソミ♭」がハ短調ではなく、変ホ長調のI度~V度に置かれていたらどう聴こえるかを想像すると、わかりやすいと思います。
西洋音楽史の場合、19世紀にひとつのバブル時代があったのは確かですが、いくらなんでも阿僧祇や那由多という数のメロディは書かれていないでしょうし、仮に書かれていたとしても、それによって音楽の可能性が尽きることはない。そういう性質のものです。
作曲家にとって可能性が少ないという問題は起こりえません。残されたパイなど、何億人という作曲家の胃袋を破裂させるくらいの分量があります。
交差点に差し掛かると、前を見ても左右を向いても、どの信号にも青い光が灯っている。ここは前に進んだほうが良いのだろうか。カーナビが答える。「前?良いですよ、別に」…いや、右にハンドルを切ったほうが良いのだろうか。カーナビはやはり答える。「右?構いませんよ、別に」
何をしても良いと言われると、かえって何もできなくなる。どこにも行けなくなる。作曲家が向き合っている本当の難しさというのは、可能性が「ない」ことではなく、可能性が「ある」ということです。「ない」なら残りを書けば良いだけ。困ることはない。「ある」から困る。
ゆえに、「正しい道のり」というものに、作曲家は恋い焦がれる。自分の行動を正しく正しく埋めていく欲求に駆られる。この交差点を正しく右に曲がった。次の交差点を正しく直進した。そのように「正しさ」を順に埋めていくと、登場人物がみな清く正しく品行方正、模範的にして完璧な人物ばかりで、肝心の殺人事件が起こっていない刑事ドラマが出来上がる。
なにかヘマをしても「お兄ちゃんはああいう人だもの」と許してもらえ、たまに良いことをするとものすごく褒められる。そういう、車寅次郎的に愛される作曲家になるのが、いちばん難しい。僕はベートーヴェンを心ひそかに「音楽史上最大の無罪放免」と呼んでいますが、こういう種類の人物は決してアンバランスなのではなく、奇妙な形でバランスを保っているジェンガのようなものです。
不要なものが彼から自然と抜け落ちていった結果として彼があるわけですが、「じゃあ自分にとって何が不要なものだろう」と考え始めると、これは「正しさ」を埋める作業に他ならなくなる。作る作業というものは、どこまでも、自分とのたたかいです。
「作曲をしているあなたに言うのも失礼だけど、もう音楽の可能性は出尽くされてしまった。バッハのような天才など二度と現れまい」と、僕の目の前に座った老人が嘆く。僕の曲を聴いてそれを仰ったのなら批判とも皮肉とも受け取れたので、素直に「ごめんなさい」と言うこともできたのですが、僕はただ「作曲家です」と自己紹介をして彼の前に座っただけ。で、これを言われた。
バッハの後に生まれたモーツァルトもベートーヴェンもショパンもブラームスもみーんな天才とは呼べないということですね。という嫌味は胸にしまいましたけれども、僕はこれを心ひそかに末法思想と呼んでいます。さぞかし現代音楽は濁世を象徴するものと聞こえてらっしゃることでしょうが、紀元前から続く音楽という営みを、もう少し信頼していただきたいところです。
12個しか音がない。ということに、ひどく心配される方々がいらっしゃいます。メロディの可能性は非常に少ないのではないか。音楽の可能性は出尽くされてしまったのではないか。そうした言説は折にふれて現れ、もっともらしく思われもしています。たしかに12音という数字は日本語の五十音表より頼り無さそうです。ただ、冷静に考えれば、我々は音楽の音のひとつひとつを取り出して「ソ」「ソ」「ソ」「ミ♭」と聴いているわけではありません。「ソソソミ♭」までをひとつのまとまりとして聴いています。言葉だってそうです。ひらがなひとつで通じる街の名前は「津」ぐらいです。動機やメロディというものもまた音程と音程の関係によって成り立っているのであって、作曲家も当然、その「まとまり」を書くことになります。
4音の動機を作るのに、「ドドドド」から「シシシシ」までいくつの可能性があるのかといえば、これは単純に12を4乗すれば答えが導き出されます。すなわち、20,736通り。図にして示しました。ベートーヴェン『運命』の「ソソソミ♭」は、この図で言えば「7773」。ベルク『ヴォツェック』の「Wir arme Leut(自分たち貧乏人には)」は「3B47」。
ある作曲家がこれから書く4音の動機を予想して当てる、というのが、仮に賭け事になったとしたら、これは数字選択式宝くじ「ナンバーズ4」のストレートよりも難しい、ということになります。
モーツァルト『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の第1ヴァイオリンが弾く冒頭から10小節目までのメロディは60音あります。60音を使うメロディの可能性は、単純計算で12の60乗。阿僧祇や那由多という単位など軽く超えるでしょう。これはオクターヴの関係、拍子やリズム、テンポ、楽器法やオーケストレーションを一切無視した数字であって、それらの要素を付け加えればさらに膨れ上がりますし、もちろん、動機は4音でなければならない、メロディは60音でなければならない、などという決まりはどこにもありません。
12音技法の場合、音列の可能性は12の階乗になりますから、1×2×3×…12=479,001,600通り。同じ音を重複させずにすべて使うというルールのため、かえって可能性が少なくなるわけですが(と言っても5億近くありますけど)これはシェーンベルク先生が、彼が研究し尽くした古典の果実とコミュニケートするため、あえて手段を絞ったものと解すべきでありましょう。
「ドドドド」と「シシシシ」は移置によって同等の音列と言えますが、移調によって同じ動機とは限りません。単純な移調を勘定に入れる必要はありませんが、「箸でご飯を食べた」と「橋で」「端で」は意味が違ってしまうというようなことが和声の機能によって起こるので、この場合、作曲家のなかで同じ意味を持っているとは言えないでしょう。「ソソソミ♭」がハ短調ではなく、変ホ長調のI度~V度に置かれていたらどう聴こえるかを想像すると、わかりやすいと思います。
西洋音楽史の場合、19世紀にひとつのバブル時代があったのは確かですが、いくらなんでも阿僧祇や那由多という数のメロディは書かれていないでしょうし、仮に書かれていたとしても、それによって音楽の可能性が尽きることはない。そういう性質のものです。
作曲家にとって可能性が少ないという問題は起こりえません。残されたパイなど、何億人という作曲家の胃袋を破裂させるくらいの分量があります。
先日ある生徒が三つの音だけでメロディを作ろうとした後で言った。「制約を感じました」この三つの音―つまり素材―に関心を持っていたら制約を感じはしなかっただろうし、素材に感情はないため、制約そのものもなかっただろう。制約は本来、素材に属していながら、すべて彼女の心の中にあったのだ。(ケージ)
交差点に差し掛かると、前を見ても左右を向いても、どの信号にも青い光が灯っている。ここは前に進んだほうが良いのだろうか。カーナビが答える。「前?良いですよ、別に」…いや、右にハンドルを切ったほうが良いのだろうか。カーナビはやはり答える。「右?構いませんよ、別に」
何をしても良いと言われると、かえって何もできなくなる。どこにも行けなくなる。作曲家が向き合っている本当の難しさというのは、可能性が「ない」ことではなく、可能性が「ある」ということです。「ない」なら残りを書けば良いだけ。困ることはない。「ある」から困る。
ゆえに、「正しい道のり」というものに、作曲家は恋い焦がれる。自分の行動を正しく正しく埋めていく欲求に駆られる。この交差点を正しく右に曲がった。次の交差点を正しく直進した。そのように「正しさ」を順に埋めていくと、登場人物がみな清く正しく品行方正、模範的にして完璧な人物ばかりで、肝心の殺人事件が起こっていない刑事ドラマが出来上がる。
なにかヘマをしても「お兄ちゃんはああいう人だもの」と許してもらえ、たまに良いことをするとものすごく褒められる。そういう、車寅次郎的に愛される作曲家になるのが、いちばん難しい。僕はベートーヴェンを心ひそかに「音楽史上最大の無罪放免」と呼んでいますが、こういう種類の人物は決してアンバランスなのではなく、奇妙な形でバランスを保っているジェンガのようなものです。
不要なものが彼から自然と抜け落ちていった結果として彼があるわけですが、「じゃあ自分にとって何が不要なものだろう」と考え始めると、これは「正しさ」を埋める作業に他ならなくなる。作る作業というものは、どこまでも、自分とのたたかいです。