2014年11月29日土曜日

「自殺者たち」素描


◎自殺者たち
op.87 Suicides
 芥川龍之介の遺書から Adagio piangende
 太宰治の遺書から Moderato grazioso
 有島武郎の遺書から Fließend bewegt - Adagio molto
 原民喜の遺書から Andante moderato
 夏目漱石「こころ」より Allegro con fuoco / Andante
作曲年月 2014年7月
演奏時間 12分
楽器編成 歌曲(バリトンまたはアルト)
献呈 岡元敦司(Bar)
初演 岡元敦司(Bar) 西澤健一(Pno)/2014年12月・東京 アコスタジオ 西澤健一作品展2014

* * *

 ある夏の日のことだ。

 その日は不思議な日で、朝に府中の駅から電車に乗ると、僕が陣取った吊り革の目の前でT先生が口を開けて寝ていた。寝ているところを見ていましたと言うのも忍びないと思ったので、先生が僕に気付かずにいたのを幸いに、新宿で少し距離をあけてから、声をかけた。

 「なに、同じ電車だったの?」
 「そうみたいです」
 「仕事?」
 「ええ。今から西新井に」
 また、ゆっくり、改めて。山手線の階段の下で別れた。

 西新井でひとり生徒を教えてから渋谷に向かい、演奏会のためのリハーサルを済ませ、夕刻。小腹を抱えながら食うか食うまいかでうろうろ悩み、各駅停車を一本見送った井の頭線の下北沢でK君が同じ車両に乗ってきた。僕を見るなり、彼は目を丸くした。
 「どうしたのこんなところに」
 僕が電車に乗っていることがK君には珍しい光景らしかった。
 朝もT先生と同じ車両になったことを告げると、「そんな偶然もあるんだねえ」と感心していた。僕とT先生が出会うきっかけを作ったのが、このK君だった。
 「ところでなんでそんなに日焼けしてるの?」
 「うちの近所に市民プールがあってね」
 「海じゃないんだ」
 「そう、近場でね。小学生たちと泳いでいるよ」
 奥さんが幼い我が子と帰省している盆休み。夕飯をあてに実家に顔を出したのに、K君は母親にすげなく追い返されたのだという。
 「今日はこの後なんにもないの?」…もちろん、何もなかった。


 仙川は小雨のあとに濡れていた。
 日が落ちて幾分涼しくなっても、もうもうとした湿気は執拗に肌にまとわりついてきた。K君が勧める「最近知った美味い店」には満席で入れず、僕たちは商店街を北に南に行ったり来たりした。どこかいい店ある?と聞かれても、そんなのは学生時代から仙川に通う彼のほうが詳しいだろう。
 「ちゃんとした人とは一緒に行けない店だから」
 と、名誉なのか不名誉なのかよくわからない理由をつけられて、見た目にも古びた大衆酒場の暖簾をくぐることになった。
  
 「最近はどんなの書いてるの?」
 僕は作曲中だった歌曲集の原稿をかばんに入れていた。それは自殺した文豪たちの遺書をテキストにしたもので、芥川龍之介と太宰治には曲を付け終わり、有島武郎の「濡れそぼちながら最後のいとなみをしてゐる」の部分を書いているところだった。
 僕にとって数少ない作曲の友であるK君に、僕は昔からよく楽譜を見せてきた。太宰の、変ホ短調から嬰ハ長調に転調した部分に、親の敵のようにつけられたダブルシャープを指でなぞりながら、彼は、うわあ、と言った。

 「大丈夫?」
 「なにが?」
 「さすがにイヤだよ」

 K君は笑っていたが、声に幾分かの本気が込められているのを、僕は聞き逃さなかった。そういうつもりはなかったのだが、なんとなく悪いことをした気がした。
 T先生と僕とが出会う前、K君とT先生は、ひとりの共通の親友を、それが理由で亡くしている。彼の脳裏によぎったのもそれだということを、僕は容易に推察できた。
 「大丈夫だから」
 このような場合、大丈夫だと言っても大丈夫じゃないと言っても、結局は心配されるものだ。
 僕はそれなりに、精神的な危機というものを何度となく経験している。世の中でなすべき仕事が終わったら、生きたい生きたいと願っても神が魂を攫っていくということを、僕はもう、なんとなく理解できている。逆に言えば、仕事が終わらない限りは死を願っても連れて行ってくれない。そう思っている。
 乾いた喉を潤すためのビールは、もう日本酒に変わっていた。


 「誰も『しまった』と思わないのが恐ろしい」
 この日の少し前に、ひとつの自殺が我々の社会を驚かせていた。と、僕の友人の医者がこんなつぶやきを書いていたのを僕は読んだ。この「しまった」と、漱石「こころ」の「私はまたああ失策つたと思ひました」の一節が僕のなかですぐさま結びついて、ちょうど良く声楽家と一緒に練習していたこともあり、あっという間に歌曲集のプランが立ってしまったのだった。
 「お前らそんなに自分は正しいと思って生きているのかよ」
 と、かの友人は怒りにまかせて書いていた。それは完全に同意できるものであると同時に、僕にはもう少し、別の意図が働いた。ただ、書くということの衝動性については僕も彼のことは言えまい。練習しなければならない楽譜が山積みになっているのに、僕はそれを忘れて、没頭した。
 実際、2週間とかからなかった。

 人として精神的に脆い、脆くない。そんなものは自殺と一切関係ないのだ。罪だの、逃避だの、反撃だの、社会として損失だったの。人の生き死にに社会からの目線でモノを言う前に、まずは帽子を脱ぎたまえ。と、僕は他ならぬ我々の社会に対し、思ったのだった。
 コレガ コレガ人間ナノデス
 人間ノ顔ナノデス(『原爆小景』)

◇ 
 
 小鳥たちは時間のなかでも最も微妙な時間を感じとり、それを無邪気に合図しあつてゐるのだらうか。僕は寝床のなかで、くすりと笑ふ。今にも僕はあの小鳥たちの言葉がわかりさうなのだ。さうだ、もう少しで、もう少しで僕にはあれがわかるかもしれない。(『心願の国』)
「とうとう僕は雲雀になつて消えて行きます」
 原民喜の遺書をもって、僕は歌曲集のすべてを書き終えた。彼は小鳥たちの言葉を理解したいがために死んだのだろうか。それとも、それが理解できてしまったがために、向こう側の世界に往ってしまったのだろうか。僕は自分の曲にも関わらず、ひとつの旋律となった「あなたを祝福する心で一杯のまま お別れ致します」の言葉に自分でショックを受けた。こんなにも優しい言葉は、願わくは一生、誰からも受けとりたくはない。受け取らないままでいたい。
 でも、本当に我々の社会に必要なメッセージは、これなのだ。
 そしてそのメッセージをもっとも効果的に伝えられる媒体であると信じていればこそ、僕はこの分野の音楽に、昼間に昇る月のように、ぺらぺらと張り付いているのである。
  
 その日はまだ、僕は民喜に辿り着いていなかった。
 2本3本と徳利を空けて、すでにすっかり酔っていたK君に、「いい加減お願いですからちゃんとしてください」と説教され、苦笑した。思えば彼には数年おきに説教され、僕はそのたびにいつも苦笑している。僕は彼から説教されるのが、彼からぷりぷり怒られるのが、心の底から嬉しいのだ。ちゃんとしなきゃなあ、と、そのときは思う。いや、いつも思っている。ちゃんとしているつもりでもあるのだが、困ったことに、僕は根っからの、ちゃんとできない、どうしようもない人間らしかった。

動画=2015年6月6日、中部大学・三浦幸平メモリアルホール 第78回中部大学キャンパスコンサート 岡元敦司(バリトン)西澤健一(ピアノ)

2014年6月8日日曜日

「新垣隆コレクション」を聴く


 白寿ホールで「新垣隆コレクション」を聴く。
   * * *
 さすがに感慨深いものがあった。
 2月の会見の時点で、まさかこの日がこんなに早く来るとは思わなかった。しかも、満杯の客席で。講師の委嘱を辞退するという形式で桐朋学園を退職され、当初の予定にない形での名誉回復の成就と言える。署名サイトは今日現在で19,370人の賛同を頂いている。この2万人近い方々の善意がなければ叶わなかったことだ。発起人のひとりとして、今日の日が嬉しくないわけがない。
   * * *
 演目にはバルトーク、バッハ、ハイドンと新垣さん自身の作品が並んだ。

2014年3月21日金曜日

夏の前奏曲

◎夏の前奏曲
op.85 Le prélude d'été
作曲年月 2014年2月
演奏時間 10分
楽器編成 ピアノ(2台8手)
委嘱 連弾ネット
初演 ZOFO duet(Eva-Maria Zimmermann&中越啓介)、小林郁、吉田明美/2014年5月・仙台 仙台市戦災復興記念館 ピアノ・デュオ春の祭典2014~東日本大震災復興への祈りを込めて~

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(2台8手の委嘱作が初演される「ピアノ・デュオ春の祭典2014~東日本大震災復興への祈りを込めて~」(総合監修:松永晴紀 仙台公演/5月1日(木)19:00開演 戦災復興記念館ホール 東京公演/5月4日(日)15:00開演 東京オペラシティリサイタルホール)のために寄稿したエッセイを掲載します。)

 10年前。2004年のことだった。

 楽譜を書き上げ一服しながら、僕は深夜のニュースを見ていた。
 7年に一度、諏訪大社の御柱祭が宴もたけなわであるという。木落しの坂から丸太ごと何人もの人間がごろごろ降ってくる様子が画面に映し出されていた。けが人何名、病院に搬送されました。死者はない模様です。この祭りに恒例の報道が、冷静に行われていた。
 「参加者の方にインタビューしました」
 丁寧で正しい発音の標準語が、装束に身を包み上気しきっているひとりの男に「どうしてそんなに燃えているのですか」と尋ねている。ぜいぜいと荒く肩で息をしている彼との落差があまりにも滑稽だった。が、しかし今でも忘れられないほどに、彼の答えは深く僕の心に刻みこまれることとなった。いわく、
 「御柱だからです。ただ、御柱だからです。自分でもよくわかりません」

 僕はしばらく黙りこんでしまった。
 そういえば岡本太郎も「死んで何が悪い、祭りだろ」と言っていた。彼は御柱に惚れ込んで、あの坂を巨木にまたがって下りるのだと、ごねたことがあるらしい。
 人のことは言えない。僕も仲間内にお祭り男と言われる人間である。
 5月の連休。僕の住む東京都府中市では大國魂神社の例大祭「くらやみ祭」の真っ最中である。人の背丈よりはるかに大きな直径を誇る6張の大太鼓が三日三晩にわたって打ち鳴らされ、24台の山車が鳥居の前を各々のリズムとテンポを保ちながら交差して、ささらと雅楽に先導されながら8基の神輿が白装束に担がれ、日没後と日の出前、灯りが落とされた町内を湯気を立てながら巡る。祭りが終われば街は灰になる。僕はことに、内蔵ごと揺らされる大太鼓の音が好きで、どうにもこの土地を離れられないでいる。

 5月4日の朝が来れば、いよいよ大太鼓が力強く響き渡る。
 オーライの声に導かれ、全力で振りかぶって打ち付けられる撥。内臓といっしょに近くのビルの窓ガラスがびりびりと揺れる。大砲のような音響に反比例して、近代的な街がしんと静まりかえり、神の声に草木が頭を垂れる。そんな様子を眺めて…どうしてなのかは自分でもよくわからないのだが…僕はぼろぼろ泣くのだ。いつまでもこの音に埋もれていたいと願うのだ。

 ピアノ・デュオ春の祭典、2014。
 開催が5月4日に決定と聞いて、僕は正直、少々切なかった。

 グラミー賞クラシック部門にノミネートされたZofo duetをアメリカから招聘し、国際的な舞台でも活躍する日本の代表的な実力派デュオが一堂に会する。この面々がよくも1日に揃えられたものだと、おそらく、企画した「連弾ネット」自身が驚いていることだろう。
 企画段階では東京公演しか決まっていなかったのこのイベントの大トリを仰せつかり、Zofo duetとDuo T&Mの2組のデュオを念頭に、僕は新たな2台8手の作品を作曲することとなった。
 アルバム「MIND MELD」にストラヴィンスキー「春の祭典」の連弾版を収録し、世に高く評価されることとなったZofo duet。一方のDuo T&Mも、2004年3月から1年4ヶ月に渡る連続リサイタルシリーズの最後に壮絶な演奏で披露した曲こそ、連弾版「春の祭典」だった。
 たかが10年前とはいえ、日本のピアノ・デュオはまだまだ冬も良いところだった。
 先見に充ちたこのシリーズを全面的に支え続けた田中一実氏は終宴ののち、燃え尽き、斃れた。半世紀にも満たない人生を閉じた。間もなく、彼を慕い続けた人々が中心となって「連弾ネット」が設立され、日本の多くのデュオたちが芽吹くこととなった。

 だったらイベント名も「春の祭典」でいいじゃないですか、春なんだし、祭典なんだし。と、洒落のようなことを言い出したのは、何を隠そう僕である。まさかそのまま採用されるとは思わなかった。
 
 1月が過ぎ、2月に入り。急ぎの仕事のかたわらで、チラシの準備、プロフィールの校閲。プログラムを確認すれば祭典の名にふさわしく重量級の十八番がずらりと並び、最後は文字通りの「春の祭典」だ。ストラヴィンスキーを聴いたあとの聴衆に何を聴かせれば良いものか。僕の名前の横に書かれた「委嘱新作」の文字。これがさっぱりわからない。春の遠いこと。五線の段数の多いこと。
 今年の冬はことに寒かった。
 ストーブを抱えて40本の指を持て余していた。僕の曲など、いっそ無くても演奏会は成り立つだろうに。タバコをくわえたり、かと思えば鉛筆をくわえたり。整えていない髪をぼりぼり掻きながら僕は夕方前のワイドショーを見ていた。かつて見たことのないほどの雪が、東京に積もっていった。

 「人生は祭りだ、共に楽しもう」
 そんな言葉で締めくくられる映画があった。祭りの果てに世界は灰となり、人は残酷にこの世に残される。しかしそれは、けやきの木々が青々と光を浴び、あたたかく優しい春に別れを告げて、全身で灼熱の夏を迎え入れる合図だ。僕は夏のはじまりを仙台から宣言してもらうことにした。
 ここに集うデュオたちと、主催・共催団体である「連弾ネット」「国際ピアノデュオ協会」「仙台ピアノデュオの会」とが日々舞台裏でやりとりしているメールの数々をここに公開するわけにはいかないが、それらは皆様にもお見せしたくなるくらい熱い情熱に彩られている。
 いったいどうして僕たちはこんなに燃えているのだろう。

 「音楽だからです。ただ、音楽だからです。自分でもよくわかりません」

2014年3月18日火曜日

愛のカタチ

 今回は序奏なしに主題から提示する。
 
 問題の円満なピカルディ終止のために、僕からひとつの提案をしたい。
 佐村河内氏。もしもあなたが世間に対し嘘をついた罪をつぐないたいと言うのなら、今後の人生すべてをかけずとも簡単に実行できる方法がある。新垣さんが著作権の放棄を会見で明言したように、あなたも、あなたの保有している権利を聾唖者団体や障害者団体に、そのまま譲渡しなさい。
 
 以上の主題を展開させていただく。
 
 以前「3つの提言」と題する記事を書いたが、もちろんこれらの提言は批判と皮肉をこめたジョークである。とは言え、僕とてジョークを言いたいがためだけにこれを書いたのではない。音楽と社会はどのように関わっていくべきなのか、ひとつの問題を目の前にして人と人はどのように協力していくべきなのか、それをジョークの形式で示したのである。
 あまり面白くなかったという意見に対しては、陳謝する。
 しかしこの事件は音楽の世界に起きた事件なのであり、創作は現にあったのであり、誰がなんと言おうと新しい作品が生まれた事実に変わりはない。新しい音楽作品とは、作品の価値の有無や出来の良し悪し以前の問題として文字通り人間社会の財産なのであって、それは人々にあまねく共有されるべきものである。ここを否定するようになれば、まさに我々音楽家の自殺だ。
 新しい作品が生まれることで誰かがひとりでも不幸になってはならない。現に、この事件では誰も死んではいないのだ。我々をオウム扱いされては困る。
 
 悪い商売に使われてしまったマンションを建てるのに汗水垂らしてコンクリを捏ねていた型枠大工は罪に問えるのか。僕から見るこの事件は、そういう事件である。演奏家たちは文字通り汗水垂らして練習していたのだから。しかし、建築士は自らを悔いて世に告発した。王様は裸なのに今まで黙っていた私は共犯者です。しかし彼は、その実、マンションを設計していたに過ぎない。なれば、悪い商売をやめて、新たに良い商売を始めれば良い。訳あり物件をわざわざマンションごとユンボで解体する必要はない。商売主である佐村河内氏が真人間になりさえすれば良いのである。

 主題を変奏しつつ再現する。
 世間を侮辱したのは音楽そのものではない。商売の手法が問題だったのであって、音楽はどこまでも音楽である。音楽が悪い商売に手を貸してしまったのなら、今からでも挽回は利く。今度は横浜の温泉付きマンションではなく、障害者たちの手元に、啓蒙活動のための資金が入るようにすれば良いのである。弾けば弾くほど障害者のためになるシステムを作れば良い。全聾と難聴の区別が人々の間につくようになれば、自然、今後はこのような事態が起こりにくくなるだろう。
 先天の全盲・弱視である僕の叔母夫婦は、日頃から中途失明・弱視者に向けたボランティアをしている。盲人が盲人のボランティアをしているのであるが、中途は弱視でも命に関わることが起こりうる。健常者の差し伸べる手よりも、生まれながらに見えない世界に住む彼らのアドバイスのほうが役に立つことは多い。これらのボランティアに少しでもお金が回れば、実に素晴らしいことだ。
 
 交響曲をはじめとするあれらの作品群は、僕の耳にもゲーム音楽の文脈として、新垣さんの言葉を借りれば「サブカルチャー」の文脈として聞こえる。しかし、サブカルチャーの文脈で交響曲を書いてはならないなどと一体どこの誰が決めたのだろう。あっても別に良いではないか。あの曲は、ゲーム音楽に親しんできた現代日本の聴衆のための、新垣隆作曲「青少年のための交響曲入門」である。実のところ、「祈り」だの「鎮魂」だの「闇から光」だのよりも、本当はさらに高い理念のもとに書かれた仕事である。
 僕は文春の「ヤマト」のくだりを読んで、新垣さんがこの技術を手にするまでの苦労がどれほどのものだったのかを思った。あそこは確かに「ヤマト」であった。僕にはどうしてもマーラーに聴こえなかったが、ようやく腑に落ちた。勉強になった。僕も仕事に応用させていただこうと思う。
 「ソナチネ」もまた、大事なヴァイオリンのテクニックが身につく練習曲として利用していけば良い。子供たちの発表会でも人気曲になるだろう。このようにして音楽熱を盛り上げていくうちに、作曲家もやりたいことしかやってないのに世間でも受けが良く、長く演奏されていくに値する作品というものが湯水のように沸き上がってくる。音楽の傑作は個人が作るのではない。人と人とが共同で作っていくものだ。僕も10年以上作曲家の看板を背負って生きてきて、身にしみて分かったことと言えば、それくらいだ。
 
 生まれたばかりの作品が傑作か駄作か。それを拙速に判断しようという姿勢こそが、そもそもの誤りなのだ。酒で言えば蒸留を終えたばかりである。まだまだ無色透明だ。原酒を詰めた樽が10年後、20年後に良質のウイスキーになっているのか。神のみぞ知る。樽がすべて無事とは限らない。腐る場合がある。きれいな琥珀色になった昭和の歌謡曲もある。酒は作り続けるということが何よりも大事だ。飲み続けることが大事だ。それこそが「愛のカタチ」というものだ。100年後の音楽は100年後の人間に任せれば良い。我々はどうせみんなきれいに死んでいる。
 
 佐村河内氏。今度こそ、あなたは音楽界の大恩人になるチャンスが到来しているのである。新垣さんはあなたと争うつもりはない。「この2人が世間の前で争っていることがそもそもおかしい」と言っている。僕の前でもいじらしいほど、あなたのことを一言たりとも悪くは言わなかった。
 あなたは正真正銘の名声を目前としていることに気付いてほしい。一時の利益を捨てさえすれば、あなたには何百倍ものものが返ってくる。その返ってくるものの大きさと、温泉付きのマンションと。どちらが大きいものなのか、よく考えてみてほしい。
 
 あなたも含め全員丸儲けの算段だ。悪い話じゃないと思うが、いかがか。

2014年3月8日土曜日

新垣さんのお礼文

 新垣さんからのお礼文を預かっている。
 
 つまり現在、僕は新垣さんと接触があるのだが、これについては詳しく述べない。誰の質問にも答えるつもりはない。暇だったら考えても良かったが今月はことに忙しい。ご理解を乞う。
 ただ、証明はできることを念のため申し上げておく。

 なぜ僕なのか。署名サイトの管理をしている手前、僕が預かったということだ。
 なぜ教え子ではない僕が管理をしているのか。特に理由はない。
 ただ、佐村河内氏には分からないだろうが、音大の学生たちはこの時期とても忙しい。試験があったり、海外に研修に行ったり。この問題に首を突っ込めば、ただでさえ貴重な時間が大人の都合に奪われる。優秀な彼らの親御さんに申し訳がたたない。僕はたまたま彼らと仲が良いのだが、幸いどこの音大の先生でも関係者でもない。いざとなればなんとかなる。つまり、自由がきいたわけである。
 やはり正解だった。なにかといろいろ対応に追われて大変だったから。
 それに学生たちも、新垣さんひとりのためだけに立ち上がっているわけではない。
 
 連絡があったのは先月2月25日以降だ。
 署名に賛同してくれた方々にお礼を申し上げたい。そのような申し出を受けた。
 そこでお礼文を預かったのだが、相談のうえ掲載を見合わせていた。理由は3点。署名サイトに掲載する文章は発起人一同の声明に限ったほうが良いであろうこと。世間を騒がせば新垣さんへの反感を強める結果になりはしないかと心配したこと。そして、謝罪文を発表してからしばらく、佐村河内氏の動向がまったく見えなくなっていたこと。彼は逃げるのではないかと僕は思っていた。もしそうなら、逃げようとしている者を追い詰めて、もしものことがあってはいけない。
 実は昨日の記事でも引用していたのが、その際にやりとりした新垣さんの考えを以下に要約する。これは3月5日のことだ。
 
 「私も彼の逃げ場がなくなることを案じています。ですから、逃げて解決するのであればそれでよいかもしれません。私にはわかりませんがいろいろと事情もあるのでしょう。私としては彼に、仕方のない嘘をついていないで、曲を世に広める情熱に嘘はなかったのだということを訴えて欲しかった。「HIROSHIMA」が1年をも費やして完成させた労作だとしても、売れないのが現実です。新垣は僅かなお金しかもらっていないと言われているけどそれは当然です。売れるかわからないものを5年もあきらめずに、ついに世に広めたのは彼なのです。どんなに非難を浴びようと、世間を欺いたことを謝罪したうえで、ゲームプロデューサーなどから出直す努力をして欲しかった」
 
 僕は新垣さんのほうの身上を心配していたのだが。
 しかし、僕はこれで新垣さんが交響曲を書いた理由がわかった。痛いほどわかった。
 趣味と異なる音楽であろうと、いつもと違う作風の作品であろうと、そんなことを彼は問題にしていないのだ(むしろ余計大変なくらいだ)。完成は03年。逆算すれば委嘱・着手は02年以前。佐村河内氏が手帳を手にしたのは02年1月。「現代典礼」は「HIROSHIMA」と勝手に改題され、「お蔵入りになった」と思っていたのに発表されて「驚いた」。抜粋の初演は08年9月である。大事な点なので、もう一度指摘しておく。ゴーストライターの是非が問題ではないことも指摘しておく。
 「共犯者」という表現を、僕は最初、彼の性格を知る者として、彼の文脈で理解し受け取った。しかし考えなおさなければならない。この言葉にはもっと深い決意が込められている。
 
 にも関わらず、だ。昨日の会見はあれは何だ。
 僕はあの程度の生半可な詐欺師が乗っ取れる業界であることに屈辱を感じているのだ。「てめえらが欲しがってる感動物語をくれてやったんだよバーカ!」ぐらい言いたまえ。何をしおらしく反省なんかしているのだ。「ポケットマネーで交響曲買ったことあんのかよ悔しかったら真似してみろや」と札束でペチペチ軽部アナの頬を引っ叩いたら、世間の誰が何と言おうと、僕は俄然、支持した。ここにも最大級の賛辞を書き連ねた。開き直る方向を完全に間違えて、あいつはなんという白痴なのか。せめて業界が乗っ取られるなら、もっと徳の高い悪魔のような詐欺師のほうが何千倍も良かったのに。屈辱だ。
 
 もともと公開を前提で受け取ったものだ。
 昨日のような喧嘩を売られては、こちらも黙ってはいられない。改めて了解を得たので、28日に受け取った「お礼文」を原文のまま、ここに掲載させていただく。


 この度私、新垣隆は、佐村河内守氏との関わりにおいて世間を大変お騒がせし、皆さまに多大な御迷惑、御心配を御掛け致しました。深く御詫び申し上げます。
 事件に関しましては諸々の報道の通りであります。そしてその様な中、私の学校の進退に関しまして、署名活動という形で皆さまの大変あたたかい励ましの言葉を頂いた事が、私にとってどれほど心の支えになったか知れません。
 皆さまの御理解、そして誠意ある言葉に対して、私は最大限応えねばなりません。
 学校の進退に関しましては、世間を大きく騒がせてしまった事、その中で(1)障害者詐称の幇助(2)それによって結果多くの人々の心を深く傷つけてしまった事―また特にその中に未成年者を含んでしまった事―の責任は免れないと思いました。
 2月17日に退職願を提出し、受理されました。皆さまには大変申し訳ない気持ちでいっぱいですが、どうぞ御理解頂けましたらと思います。
 それでも尚、私の音楽活動を認めてくださった皆さまと共に、今一度初心に戻り、一歩一歩、歩んで行きたいと強く思っております。今後共、どうぞよろしくお願い致します。
 本当にありがとうございました。
 
 '14 2/28  新垣隆

 退職願が受理された今、署名サイトも本来の意味を失ってはいるのだが、これも相談のうえ、今はこのまま残す方向で合意している。本来の意味ではない別の意味で、改めて署名へのご協力を皆様に願う次第であるが、最後に僕の今の切なる気持ちを一言だけ申し上げたい。
 
 てめえら作曲ナメてんじゃねえよバーカ!

2014年3月7日金曜日

ほんとうの嘘

 作家とは正真正銘、本物の嘘つきなのだ。
 
 かぐや姫は本当に月に帰っていったのか。カルメンとホセは本当に刃傷沙汰を繰り広げたのか。孫悟空や亀仙人やピッコロや魔人ブウは本当に実在するのか。見てきたような嘘を作品にして、「この作品はフィクションです。実在の人名・団体・事件などには、いっさい関係ありません」と断った上で、読者や聴衆に渡すのが作家の仕事だ。根っからの大嘘つきである。
 しかし、それらを嘘だと罵る人など世界中どこを探してもいまい。すぐさま嘘と理解でき、しかも人々の共感を呼ぶ「すてきな嘘」「面白い嘘」でなければ、作家は評価されないのだ。
 マンガ、漫才師や芸人の舞台は言うに及ばず、虚構新聞が愛読され、楽器の弾けないゴールデンボンバーがエアバンドを名乗って音楽をしている。現代社会の我々も「嘘を楽しむ文化」とちゃんと心に保っている。大衆に深く根付いている。それは寛容性であり、社会の豊かさの証左だ。嘘つきは泥棒のはじまりという。瞬時にばれる嘘をつき、しかし騙して、人の心を盗むのである。そのために作家は肉に秘めたる虚構を一滴残らず作品に注ぎ込み、自分に厳しく、嘘偽りなく、上を向いて技術を磨き、どこまでも誠実に生きていかねばならぬのだ。なんと因果な商売であろう。
  
 今日の会見を見て、やはりイライラした。
 佐村河内氏に対してはもちろんのこと、マスコミに対してだ。
 
 新垣さんの会見から1ヶ月もあった。
 この騒動の問題点を何も考えていなかったのか。何もまとめていなかったのか。彼の聴力を確かめたところで何になる。あなたたちの今日の仕事は、どう評価しても最大で「少々耳の遠い50歳の変なおっさん」を社会にひとり生んだだけだ。そんなおっさん、僕にはまったく興味ない。
 おそらく、あなたたちの質問が違えば、彼の答えはそれに従って丸切り変わったことだろう。耳の問題を執拗につついて、耳の問題をこじらせたのだ。空気を読む国のマスコミならば「聴覚障害には該当しない」のペラ紙一枚ですべての空気を読むべきだった。
 責めどころさえ替えれば、この騒動から世間も教訓を受け取れたはずだ。
 だいいち、仮に彼の難聴を証明したところで、彼の行動は結局アウトである。
 いずれにせよ3年前から聞こえていたなら、あのドキュメンタリー番組の「全聾」は嘘である。作曲に行き詰まって壁に頭をぶつけたり、海に入ったり。これらはもちろんすべて嘘である。結局のところ、目の前にある美味しそうな嘘にとびつき喜んでともに生産していたに過ぎない者たちが、こぞって50歳の変なおっさんひとりをいたぶりなぶったところで何になる。「被災地への思いは本物でした」と変なおっさんに言わせて被災地が喜ぶとでも思っているのか。
 要するに、あのおっさんを壁際に追い詰め遊んでいただけだ。面倒くさい問題の責任をひとりに押し付けて。だから「名誉毀損」などと余計なことを言い始めることになる。
 
 しかし、これについては、今はここまでにしておこう。
 
 社会に許され、しかも喜ばれる嘘。社会に許されず、人を怒らせる嘘。
 「これは嘘ですよ」と渡して、しかも相手を喜ばせるのが、ほんとうの嘘というものだ。それに引き換え、「本当ですよ」「実話ですよ」「嘘ではないですよ」と言わねば人々に受け取ってもらえぬような嘘など、結局のところ生半可なのである。嘘つきとしての覚悟が足りないのである。そんな中途半端な嘘に世間が騙さたのは何が原因か。それは、ほんとうの虚構、ほんとうの嘘が大事にされてこなかったということである。ほんとうの嘘を生み出すべき芸術が、その役割をまったく果たしていなかったということである。
  
 実際にあのドキュメンタリー番組を見ていたら僕も違ったのかもしれないが、しかし昨年4月に人づてに聞いて僕が面白いと感じたのは、「全聾」の部分ではなく、「ゲーム音楽出身の作曲家」が「交響曲」を書いたということだった。日本のゲーム音楽文化もひとつの交響曲を編めるまでに成長したのか。ゲームの画面を抜けだして純粋に音楽だけを書いてみたいという作曲家が現れたのか。実に結構なことではないか。ますます音楽は盛んだ。そう思ったのである。
 しかしそれでも、売るためには中途半端な嘘に頼らざるを得ない現実だったのだ。
 予定されたもののためならともかく、売れるか売れないかわからないもののために、「未定」のために100万単位の身銭を切り、大の大人が1年もかけて書いた労作を5年もの歳月をかけ、ついに世に広めてしまうような熱意のある人間は、この業界の今現在にあるのだろうか。ほんとうに彼を馬鹿にできるのだろうか。交響曲を委嘱した当時の彼より情熱に満ちていると誰が言える現状なのか。嘘をつかなくても交響曲を発表できる音楽文化があるほうが良かったのではないか。
 別に彼はダニでも良かろう。世間はそうしてもてあそぶのが良かろう。しかし、そんなダニにぬくぬくたかられる業界だとは、いったいどれだけ我々は間抜けだったのか。今日の会見程度のおっさんが魅力的な人間に見えるほど、我々には魅力がないと世間に言われたようなものだ。悔しくないのか。
 要するに、芸術音楽家の怠慢が呼び寄せた騒動に他ならない。
 僕は今日の日を、音楽家のひとりとして、強く恥じている。

 佐村河内氏には一点だけ言っておきたい。
 僕は10年ちかく前から思想と技術の変遷と要請によって自分の創作の主眼に調性をわざと選んでいるが、あなたの後を追った記憶もなければ、あなたの後を追う予定もない。業務妨害であなたを訴えなければならなくなるので、音楽的な部分については余計な口をつつしんで頂きたい。そもそも、あなたは音楽家でも何でもなく、ただの変なおっさんなのだから。

2014年2月18日火曜日

見えているもの、いないもの

 今までも何度か書いてきたが、僕の母は盲人である。
   * * *
 全盲ではなく弱視である。白い杖と手帳を持っている。
 戦争中に鼓膜が破れて、片耳も聞こえていない。
 顔にくっつけるようにして本を読み、飲まれるかのようにテレビの前に座って、24時間テレビを見ては、おいおい泣いている。自分が障害者であることを忘れているようである。「めくらの子供なんて世間様にみっともない」と、幼少の頃は押入れに隠されて育ち、小説のモデルに口説かれるほど波瀾万丈の生涯を送ってきたが、今では埼玉の奥地で平穏無事に、毎日寝っ転がっている。
 実の息子から見ても、まったく頑張ってはいない。
   * * *
 母のおかげで僕も少し点字が読める。
 どうしても眼で見てしまうが、そこに何が書いてあるのかはわかる。読むよりも書くほうがずっと楽だ。裏返しの紙を点字器と点筆でへこませていく。裏返しだから当然左右が逆になる。つまり盲人たちは文字を扱うとき、常日頃から右と左が逆さまになった世界を、同時に、同じ分量だけ味わっていることになる。これがどのように彼らの思考に影響を与えるものなのか、ちょっと興味がある。
   * * *
 実の母を差別しても仕方ない。障害者はいつも僕の近くにいた。
   * * *
 母の妹、つまり僕の叔母も、盲人である。
 母と同じく弱視である。母が言うに、僕と性格が瓜二つだという。
 10年ちかく前、ずいぶん年下の全盲の男性と結婚した。彼の熱烈な恋であったようだ。按摩で生計を立てるごく普通の盲人ふたりである。年が年だからこっ恥ずかしいと披露宴などは一切しなかった。が、申し訳程度に親近者で集まって、二人の新居で軽く食事をした。惚気話をさんざん聞かされて、僕のほうこそ、こっ恥ずかしかった。
   * * *
 「あたしゃどう転んでも『方』って柄じゃあねえよ」
 その会話のなかで叔母が語ったことが、印象深かった。
   * * *
 「最近の若いあんちゃんたちのほうがよっぽどあたしらみたいなのにやさしいよ。
 そりゃどっかで隠れて悪りいことしてんのかもしんねえけど。そんなんあたしゃどうでもいいよ。タバコ吸ってるなんて可愛いもんだ。それよりよっぽどジジババのほうがおっかねえから、こないだもどっかの知らねえクソジジイがいきなり『あんだこのめくら』って、こうだよ。さすがにカチンとくんな。
 でも、最近の馬鹿っ丁寧な、ありゃあ、あんなんだかね。
 こんなどうしょもねえのを目の不自由な『方』って言われっと、もう首とか背中とか痒くなっちまって。多摩の女は育ちが悪りいからよ、言葉が汚ねえで。『方』なんつってご大層に笑っちまうべなあ。あたしゃどう転んでも『方』って柄じゃあねえよ。つんぼはつんぼ、めくらはめくらでいいんだよ」
   * * *
 それにしても我が叔母ながら、どうして彼は叔母に恋をしたのかが不思議になってくる。
 しかし彼は叔母の脇で「でも僕には見えてますから」と、誠実そうに言うのである。僕は手で触ればなんでもわかります。だから結婚したんです。ああ、お熱いお熱い。
   * * *
 つまり叔母が言うには、今の世の中、健常者による障害者の差別というものは、人々が思っているほどには多くないという。むしろ無さ過ぎるというか、過剰に無くそうとしすぎているようにも思えて「気色悪いくらいだわ」という。特に若い世代が障害者に優しくなったと僕の母も言う。杖を持っているだけで声をかけてくれる若者が多くなったと。「終戦直後なんざよく近所のガキどもに石投げられたもんだけどねえ」とサラリと言うが、むろん、これは無くなって良かったことだろう。
 そういう意味では確実に、良い社会になってきているのだ。
 しかしむしろ健常者とではなく、盲人社会のなかで、問題は起きるものだという。
 叔母の結婚はまったく歓迎されなかったようで、噂が噂を呼んでいた。やれカネ目的だ。とんだ色きちがいだ。不純な動機を推測しては、こき落とす。どれも現物を知っていれば笑うしかないような話ばかりなのだが、ここで生まれた悪い噂は、都心で働く見ず知らずの人間までもが知るところとなった。
 「あんだっつってもめくらってのは視野が狭めえからよ」と。素人には迂闊に手出しできない高等な洒落で、他ならぬ盲人の叔母は、これを表現していた。
   * * *
 僕の母も噂されていた。
 自由気ままにほっつき歩いて都心に住んでしまった母は、ワニを飼ったり鳩を飼ったり出来たてほやほやの二丁目のゲイバーで朝まで飲んだりしながら、いつのまにやら結婚し、実の妹と40年近くも連絡をとっていなかった。僕の母は行方不明だったのである。
 実の妹が姉の居所を知らないなんてことはあり得ない。言えない事情があるのであろう。だからきっとどこかの妾になっているはずだ。ねえちゃんあたしゃさんざん言われたんだに。長年探し歩いていた叔母に、僕は心から同情した。息子である僕が断言するが、僕の母は、どう転んでも妾という柄ではない。
 あまりの荒唐無稽さに、母もまた、腹をおさえて数分間もんどり打って笑っていた。
   * * *
 しかし聞けば聞くほど、思えば思うほど、むずむずする話だ。
 笑って済ませられるうちは問題ないが、噂はときに人を殺す。
   * * *
 目に見えないところに真実はある。
 そうなのかも知れない。しかし人はそのせいで「目に見えないからこそ真実である」と、よく勘違いをする。いま目に見えているものは何なのだろうか。ほんとうは、いま自分が手に触れているもの、手に触れることができるもの、その温度と肌触り、ただそれだけが、自分にとっての真実なのではあるまいか。なぜ僕たちは目に見えないものばかりを探し歩いているのだろうか。
 「あんだっつってもめくらってのは視野が狭めえからよ」
 ならば僕たちも、ひょっとしてめくらなのではあるまいか。
   * * *
 「気が利かねえで悪りいやね」
 夕刻を過ぎ、日は落ちて、部屋は暗かった。叔母夫婦は電気をつけなくても不便をしないのである。部屋が一気に眩しくなって目の奥が痛くなった。お茶の残りがようやく見えて僕にはありがたかったが、このときほど、電灯の音と熱と圧とを感じたことはなかった。
 彼(つまり義理の叔父になったわけだ)は生まれながらの全盲であるから、生活に困ることはほとんど無い。知っている土地ならば歩くのも早い。なにもかも一人で難なくこなす。僕のような音楽家がわざわざ味方しなくたって、むしろ彼のほうが生活力もある。
 ただ一番困るのは、紙幣が新しくなることだと叔母と口を揃えて言っていた。そこらの知らねえのひっ捕まえて「すみませんこれいくらでしょう」なあんて言うわけいかねえべ。そりゃそうだと思った。ことに、現行の紙幣は触り心地が悪く、手に覚えさせるまでたいそう難儀したらしい。前のお札はわかりやすかったと。今度新紙幣を発行する際には、ぜひ盲人の声も取り入れて頂きたい。
   * * *
 顔を触らせてくれますか。
 帰り際、彼は僕の顔に手を伸べた。頬と鼻、目や唇の位置を確かめて、「わかりました。ありがとうございます」と言った。彼にはもう、僕が見えているのだろう。

2014年2月17日月曜日

裏方仕事

 騒動以降、様々に書き綴ってきた。
   * * *
 多くの方にシェアして頂いたことを感謝するとともに、高橋大輔選手のファンの方々には是非ともお詫びを申し上げたかった。高橋選手ご本人やファンの方々の心情をお察ししてはいたものの、僕は新垣さんを通して、音楽のこれからに絞って書くことにした。オリンピックで佐村河内氏の名が流れることについての現実的な問題は、僕が考え調べて書かなくても、きっと他の誰かが書くだろうとも思ったので、ひとまず脇に置かせて頂いた。なにしろ僕も、新垣さんの会見でようやくオリンピックが始まることを知ったほどの、世間知らずである。
 高橋選手の演技も拝見した。たいへん感銘を受け、自然と胸が熱くなった。
 この騒動自体を許せないのも無理はないだろうと思った。皆様を知ってあえて無視していたというわけではないことをご理解頂き、お許し頂きたく思う。
   * * *
 得られる情報のなかだけで判断できることをもとに、僕は、できるだけ誰も、佐村河内氏すらも傷つけないよう気を遣いながら、自分の考えを書いてきたつもりだ。この手の話は、本当に最悪の結末すらありうると思っている。それだけは見たくないという想いがあった。
 3年前から聞こえるようになったと言えるくらいなのだから、佐村河内氏は何があっても逞しく生きていけるのだろうと思い、彼に対する擁護は、その時点でやめた。
 嘘をつくのが仕事の人に真実を要求しても詮ないとは言える。
 しかし、「この現状と問題を僕にまざまざと見せてくれた点においても、氏の仕事は、僕にとって価値があったと評価したい」という昨年4月の記事に書いた見解は、ずいぶん意味合いが変わったものの、やはり変わらない。だから彼に対する擁護は一切書き直さずに置く。とんでもない形式ではあったが、我々は何を考えなければならないのかを、彼が業界や世間に与えた事実に変わりはない。
 内心、ハリセンで引っ叩き倒したいが。僕は感謝している。
   * * *
 そろそろこの話題を安全に離陸するために、様々な喩え話を用いて、音楽とは何なのか、作曲とは、作曲家とは何なのかを考えていくことにしよう。世間の抱くクラシック界の「アーティスト像」に彼がちょうど良く符号していたのだとすれば、後々、少々困ったことになる。
   * * *
 美容室に行ったとしよう。
 ヘアカタログに載っているモデルや芸能人を指差し、「この髪型にしてください」と言ったとしたら、美容師はきっと、そのとおりにしてくれるだろうと思う。モデルとは頭蓋骨の形も違えば髪質だって違うかもしれない。顔の塩梅もそれほど良くないかもしれない。けれども、できるだけ客の要望に応えるように、誠実に仕事してくれることだろう。
 いくら他人の頭だからといって、ないがしろにはしないだろう。
 商売として客の髪をいじる立場にある以上、要求に応えるだけの技量がなければならない。
 「僕にはどんな髪型が似合いますか」と訊けば、美容師は考えて、提案もする。しかし、客を背後から走って追いかけて、客の好みではなく自分好みの髪型に切るようなことはしない。
 一度でも自分で髪を切って失敗した経験のある人は共感してくださると思うが、見た目に似せることは案外下手でもできる。ただ、それは2週間と持たない。上手の人が切れば4ヶ月くらいそのままでいられる。美容師だって、客の注文通り全て従ったとしても、思った以上にきれいな色が乗ったり、他の誰も一目には気付かないような絶妙の鋏をいれられれば、その日の晩酌は美味かろう。
   * * *
 このような技量は、学校で学んで習得できるのではない。
 たしかに基礎は教えられても、一言の文句も言わずに何度でも付き合ってくれるカット用マネキンと、くしゃみもすればいちゃもんもつけてくる客とでは大違いだ。そのような客を一度でも怒らせたら、後が怖い。ネットに何を書き込まれるかわからない。すべては現場で学ぶのである。
 日本の人口1億2千万。ひとりとして同じ人間はいないのだから、みなそれぞれに髪質も違うだろう。そのすべてに対応できる方法を専門学校に通う数年足らずで身につけられるわけがないのである。
 学校を出ればなにもかも出来るなどとは、ナンセンスというものだ。
   * * *
 でも人は髪を切らないと生きていけないのだから、髪型に流行があるのはとても良いことだと思うのだけど、美容師という職業そのものが流行になりすぎると、後々ちょっと困ることになるような気がするんですよ。と、ずいぶん昔に美容師版「料理の鉄人」のような番組があったころ、僕がいつもお世話になっている美容師のSさんがぼやいていた。
 これをこのまま翻訳すれば、どんな音楽家の言葉よりも、僕の考えに近い。
   * * *
 作曲家の第一義は裏方仕事にある。
 譜面さえできていれば死んでいても演奏会は成り立つのだから、裏方に相違ない。僕は高橋選手の側ではない。あのスケートのリンクを設計する側の人である。出来てしまえば死んでも問題ない。建築士がまだ生きているのか、それとももう死んでいるのか。深夜から早朝にかけてテレビに齧りついていた方の中に、それを気にしていた方は、おそらくひとりもいるまい。
 高橋選手が踊ってくれれば、万事それで良いのである。
 しかし建築士がいなかったら高橋選手はそもそもあそこで踊れない。そういうことである。
   * * *
 日本の社寺を巡るのは、けっこう好きだ。
 古刹を見学して、拝んで、いいなあと思う。しかしそのどれを見ても、特別に奇怪な建築が施されているというわけでもない。心が練られた装飾に目を奪われることがあっても、柱があって梁が巡らされた木造の三角屋根という構造自体は、それほど変わらない。
 同じような造りの民家もありそうなものなのに、いったい何が違うのだろう。
 それは、そこには何百年と通ってきた人々の信仰が染み付いているのである。信仰という言葉が大げさであれば、要するに、大事にされてきたのである。
 設計する人がいて、木を切る人がいて、鉋で削る人がいて。
 しかし人々の信仰がなければ、敬意とともに大事にされなければ、どんなに立派な建築物だってたちまちに崩壊し、朽ち果てる。古典を古典たらしめたものは、作家の才能だけではない。どんな破格の才能であっても、ひとりの力はやはりひとり分しかない。ちっぽけで頼りないものだ。むしろ作品を長年にわたり大事にしてきた多くの人々の仕事の成果として、古典は存する。
   * * *
 この意味において、あくまで僕は「聴衆は正しい」と言うのである。
   * * *
 音楽を作るのは作曲家の仕事であるし、それを弾くのは演奏家の仕事だ。しかし、音楽史を作るのは我々ではなく聴衆の仕事である。もし仮に、聴衆を導こうという意思が音楽家にあるのなら、「そうだね」「その通りだね」と人々に言わせる必要と努力を考えねばならない。
 何やら良いことを言おうとして「生きていくのに金なんて関係ないんだよ」と表現してはならない。金持ちに言われてもカチンとくるし、かといって貧乏人に言われても説得力がない。
 ただ一言、「僕にはお金がない」と言えば、「そうだね」としか返しようがないのである。
   * * *
 どうにもアーティストという単語を聞くと、僕は首や背中が痒くなるのだ。
 売文渡世というなかなか味わい深い単語があったが、あれはもう死語なのだろうか。どんな偉そうなことを言ったところで、やっていることと言えば、所詮、これに過ぎないのだが。
 そんな毎日のなかで、たまに、してやったと思う線が一本きれいに引けたりすることがある。
 その日の晩酌は、実に美味い。裏方仕事の喜びである。
   * * *
 「あそこのトリル。大好きな子のね乳首を、こう、くすぐるようにね…」
 とある学生と昨年末に二人きりで飲んだ。彼は酒を片手に恍惚と、ある曲のピアノの打鍵について、このような表現で語っていた。僕は器用に動く彼のやさしい指先を見つめながら、ああ、日本の音楽界にもいい感じのダメ人間が着々と育っているのだなあと思って、嬉しかった。「すべて日本の女の足の坐りだこを撫でてやりたいよ」という中野重治の表現を、少し思い出したりした。
 もはや一過性の欲望を超えて、目的もなく、全霊でそうせざるを得ないような。僕はこの一文で号泣したものだ。
   * * *
 山梨や秩父の雪害が心配される今日だが、昨日、一昨日と、僕は遅れに遅れた作業のため部屋に篭もりきりだった。連絡のメッセージがくるたびにFacebookを開くと、雪だるまとも言えないような雪だるまがいくつもフィードにあがっている。ハチ公が2匹になって、渋谷でスキーをする人がいて。たがが外れると、東京という街もまだまだ無邪気なのだなあと思って、嬉しかった。
 彼らの晩酌も、たいそう美味かったことだろう。

2014年2月13日木曜日

インシャーアッラー

 「一寸先は闇」という。

 戦争末期の食糧難で手持ちの米が尽きたので、夜中にすいとんを作って食べた。管理人をするのもなかなか大変なものだ。学生や音楽家たちと相談しながら、様々な対応に追われた。本来ならば仕上がっているはずの五線紙が白くて、焦る。
 「後は野となれ山となれ」の今日この頃。もうちょっと希望のある言葉がほしい。
 「もし神が望むなら」アラブ人が未来を語るときに良く付け加える言葉だそうだ。
 
 新垣隆という人が記者会見に臨んでいる。
 彼を知る多くの音楽家たちの胸のうちに、どうにも動かしがたいひとつの確信が湧いたのだ。「いくら才能があっても、人望がなければこのような展開にはならない。信頼はお金では買えない」と、僕の後輩も書いていた。今回の騒動は僕にとっても他人事ではないのだが、あの場に立った人間が僕だったなら、僕にはまったく人望が無いので、きっとこのような展開にはならなかった。ああ、どうせお金だろう、売名行為だろう、で終わったのだろう。
 こと細かく検証していけば、事実の確認は必ず事実に追いつく。
 しかし、そのときを待っている場合ではなかったのである。

 だからこれは管理人としてではなく、ひとりの作曲家として個人の想いを綴る。

 生きているだけで充分だとする人も、世の中にはいるのである。
 多少貧乏でも構わないから、その分、自分の思うところ、信じるところをし続けたい。そういう種類の「アーティスト」もいるのである。いい生活は望んでいないが、いい活動をしたい。相手が喜んでくれるなら、相手も無い袖は振れないだろうから、出せる範囲で構わない。もやしや納豆や豆腐ばかりで、肉が当分食えてなくても、仕事には嘘をつけない。そういう人もいるのである。
 むしろ、どうにも僕の周りは、そういう貧乏人ばかりだ。
 世界を股にかけ、活躍をして、衆目を浴びて。それはそれでもちろん立派なことなのだが、それだけがアーティストの生き様なのではない。吹けば飛ぶような小さな世界でもそれを大事にする。そういう人もいるのだ。むしろそういう人がいなければ、毛細血管のように世界の隅々に行き渡っていなければ、世の音楽というものは継続できないのである。
 
 何が現代の音楽なのか。それを決めるのは我々ではない。
 もう少し時代を経てから、後の時代の専門家や愛好家、世間が、この時代を振り返って、「あのへんかもしれない」と思うことで決まるのである。「早すぎた先駆者」も「無視された不遇の天才」も「時代錯誤の作曲家」も、ようやくここで定まるのである。
 今では人気があり、ふつうに学生たちの口にものぼるコルンゴルトも、僕の学生のころにはそれほど重視されていなかった。この名前を知っているのは、わりとマニアックな種類の学生ばかりだった。たかが10年少々である。こういうことはよくあることなのだ。
 この点において、人々はみな、遠視なのである。
 いや、後の時代は、後の時代の人々の必要に応じて先の時代の音楽を選び、それを聴いているだけとも言える。ならば、我々のしていることが壮大な人生の徒労、もしくは暇つぶしに終わっても、なにを悲しむ必要があろう。我々の音楽は我々の人生を支えている。それで良いではないか。

 商業用の音楽と、芸術音楽と。
 騒動のなかでこの手の議論が噴出した。僕が思うに、それは、今の時代の人間を支えているものに過ぎないという意味において、まったく同じものだ。

 後の時代には様々な価値が逆転する可能性も含んでいるということである。

 様々な人生があって良いのだ。
 様々な音楽があってしかるべきであるし、それは優劣の話ではないのだ。
 僕はクラシックという分野が好きであるけれども、いまだにブルックナーを好きになれない。何度聴いても申し訳ないことに好きになれない。たぶん性格も合わない。だが、自分が好きになれないからという理由だけで屁理屈をこねて優れていないと言うことを僕はしない。
 僕がもしもブルックナーなら、もうそろそろ人生が始まろうかという歳だ。彼が大編成を書き始めるのは40歳近くになってからだ。その歳を越したら好きになれるだろうか。自信はない。僕は自分の人生に彼の音楽を必要としないまま終わるかもしれない。とは言っても、僕は彼の信じるものを、彼の人生を全面的に支持する。そういうことである。

 「これは高尚なものである」と本人が思っていても、周りがそう思わなかったら、それは高尚ではない。低俗なものを「これは低俗なものである」と本人が割りきって、寝食を忘れて本気の低俗を目指したら、それはもはや行いにおいて、芸術との区別がつかない。
 
 クラシックの音楽家たちが、みな小さい頃からピアノやヴァイオリンを始めて、親の意思や先生の意思を丸呑みし、大人になってもそれを疑問と思わずに続けている。そういうわけではない。自分の声や木や動物の皮や腸や金属などが空気に乗って心地よく響く振動がたまらないのである。武道館で小刻みに身体を揺らしながら手を挙げ声を上げている方々の感動や熱狂と同じように、我々にとってはたまらないものなのである。増幅された大音量のかわりに、静寂のなかにそっと置かれる一音が、生きていてよかったと思わせるものなのである。
 
 そうして、修道士的な生活を好む人も、いる。
 
 そんな修道士のひとりが、あるひとりのために彼の好みに応じて書いた。その音楽が、自分の気がつかない場所で詐欺商法で売りさばかれているのを世に遅れること数ヶ月の後に知り、最後の最後まで悔恨を迫ったが叶わず、国際的な大問題になる前に、もろとも自爆テロを起こした。(去年の流行語で言えば「倍返し」だ)それが、僕の推測するこの騒動の顛末である。
 自分の書いたものの後を追わないという種類の人もいる。分野を問わずゴーストライターは今の世に必要なものなのだから、そこが問題ではないのだ。新垣さんのコメントも会見も、そこについての社会の倫理を問うているものではないように僕には解釈できる。
 著作権は放棄する。権利のことは良くわからない。五線紙上の計算ができても帳簿がつけられない。その手の本を読むなら楽譜を読むほうが楽だ。そういう人がいる。だから音楽家になってしまったような人たち。そういう人たちがいる。それを世間が甘いと言えば、甘いと言うしかないだろうと思う。
 だが本当に一番良いのは、そういう人が無意味な血を流さない社会のあることだ。
 
 キダ・タローが「私までうさんくさい目で見られる」と言ったり、Revoが「佐村河内氏に間違えられた。風評被害だ」と言ったり。少々不謹慎な物言いをすれば、少しこの件を楽しむ余裕が社会にも生まれてきたような気がする。世間はなんだかんだで、いろいろなことを上手く調整しながら、ほどよく忘れていきながら、万事丸く収めていくのだ。
 苦悩を突き抜け歓喜へ至る。ベートーヴェンが本当にこう言ったかどうか知らないが。しかし僕は「すべての安楽は困苦を通過せざるべからず」という、漱石が描いた「吾輩」の真理を信じる。
 僕は、クラシックの何が魅力かと尋ねられたら「ダメ人間がもっともダメ人間のままで輝ける分野の音楽だから」と答えるものだから。わざわざ見た目にかっこ良くなくしなくても、かっこ悪いままで輝けるから。様々な人間を、様々な人生を、丸のまま肯定できるものだから。
 進むべき道はない。だが、いくら進みたくなくても時計の針は勝手に進んでしまう。だから、科学と同様の進歩を音楽にわざわざ脅迫する必要はない。進歩を自らに課すのはその音楽家の選択であって、もちろんそういう人生があっていい。だが、そうせざるを得ない業のようなものも含めて、いつまでたっても人間はどうしようもない存在だがそれで良いではないかと、僕は思うのである。
 
 どんなものであれ、音楽がありさえすれば、それで良いのだ。
 願わくは、様々な音楽に満ちた未来であることを。インシャーアッラー。
 あと締切に間に合えば良いのだが。インシャーアッラー。

2014年2月12日水曜日

謝罪文を読む

 恐れ入った。役者が上だ。
 
 さすが世間をよくご存知でらっしゃる。天才的だと思う。
 謝罪文を読む。長年嘘をつき続けるとベテランの域になる。それで生きてマンションまで買ったのだから、もう立派なプロである。「継続は力なり」だなあと妙な言葉を思い浮かべた。この騒動の起きた後にYouTubeで彼の作曲に苦悩する演技を初めて見たが、カメラが向いてあれが出来れば、たいそう根性が座っている。素人の仕事ではない。やれと言われて出来るものではない。
 海に浸かって曲が浮かぶなら僕もやってみようか。
 彼の処遇は、もう世間にお任せしたほうがよかろう。
 
 だがその前に、新垣さんの名誉のために、もう何点か補足したい。
 それは、「18年間ゴーストライターをしていました」というセンセーショナルな表現を、少し考えたほうがいいということである。これを「18年間も世間を欺いていた」(新垣さんに近い人は「18年も佐村河内氏に脅されていた」)と人々は受け取ったわけだが、もしかしたらこの表現に、結果、世間は欺かれているかもしれないからだ。

 1. 

 最初の仕事は「佐村河内氏が持ってきたメロディをオーケストレーションすること」だったと会見にあった。これは、僕はごくふつうの、2万から3万、3万から5万のような仕事として受け取る。ゴーストライトという考えすら浮かばないし、この仕事に関してクレジットを要求しなくても、僕の感覚では不思議ではない。ここも含めて18年間のゴーストライトと言うのであれば、それは違う。

 2.

 今ではすっかり有名人の佐村河内氏だが、18年前の1996年。新垣隆を知る人はけっこういても、佐村河内守を知る人は(少なくともクラシック界には)ひとりもいなかった。テレビを見ない僕が彼の名前を人づてに聞いたのも、昨年4月が初めてだった(新垣さん本人もその頃だったようである)。少なくとも「3年くらい前」までは、業界では全くの無名だったと言える。
 
 3.

 新垣さんは、ゴーストライターという職業・役割そのものを告発したのではなく、佐村河内氏の耳に関する虚偽、およびその商売の手法を告発したものだと僕は考えている。「現代典礼」が「HIROSHIMA」になったその瞬間、たった1個の嘘が世間に投下されたのだと僕は考えている。
 池に小石を投げ込んだように、世間に波紋が広がっていった。
 その石は誰がどのようにして投げたのか。
 
 だが、悪者一人を成敗して一件落着という結末を僕は好まない。
 彼の登場をこの業界に許したのはなぜなのか。佐村河内氏の詐欺商法が社会問題だったのに、どうして奇妙な芸術論争になっていったのか。新しい交響曲のスコアは現にあった。それを「偽物」と判断するための根拠や理由はどのようにして得れば良いのか。
 僕のあの交響曲に対する解釈は実に簡単だ。
 「100%佐村河内氏好みを交響曲を、新垣さんが100%の力で書いた」である。「書いて欲しい」「こんなのがいい」と言われれば、僕だって全霊でそれに応える。80分の大編成を埋めるなど、どんな破格の天才だって片手間の仕事ではない。嘘では到底埋められない。
 「現代典礼」が「HIROSHIMA」として発表されて、本当に広島への想いを込めて演奏した演奏家も少なからずいただろう。その彼の想いは嘘になるのか。そんなに弾きやすそうな曲ではない。演奏家たちはかなり大変だっただろう。その練習の労力は、嘘なのか。
 芸術における真贋とは何なのか。
 それはいったい誰が決めるのか。
 
 ひとつの嘘が崩れて、なにもかも嘘に見られている。
 
 腹をくくった「音楽バカ」の問いかけは、想像以上に重いだろう。

2014年2月10日月曜日

3つの提言

 僕も少し冷静になってきた。
 
 これほど多くの音楽家の意見を見聞きする機会もそんなにない。そのひとつひとつを読むたびに、僕は切実に存する音楽家同士の「温度差」をもひしひしと感じている。僕にとってもっとも共感できる作曲家がキダ・タロー氏だったというのも、新しい発見であった。
 この際、少し音楽と切り離して考えてみてはいかがだろうか。
 
 例えばiPS細胞の虚偽発表。例えば旧石器捏造事件。いくつもの「前代未聞の巨大な詐欺事件」が、ここ数年だけでもいくつかあった。まんまと世間が騙され、発覚し、騒ぎになり、「どうしてマスコミは気付かなかったのか」という議論が始まる。毎度おなじみの光景である。
 人はなぜ騙されるのか。いかがわしいからである。
 ほんとかな? ほんとかな? と思いつつ、自分で自分をだますのである。
 こう考えれば単純だ。佐村河内氏は、誰にとってもいかがわしかった。
 今回は、その舞台がたまたま我々の音楽界であったというだけの話である。
 
 一方の新垣さんは、佐村河内氏という商売の「内部告発者」だ。
 内部告発者は、ふつう、守られるべき存在である。ましてや学校とは関係ない場所での内部告発なのだから、桐朋学園はむしろ彼の勇気を尊重しなければならない立場にあるはずだ。
 そもそもゴーストライターという表現を用いること自体が、話をややこしくしている。
 「18年も」という表現がややこしくしている。
 18年前であれば佐村河内氏のほうが無名で貧乏だっただろう。善意以外に手伝いをする理由がない。それがあまりに良く出来ていて、発注が来る。頼む。書く。また発注が来る。そんな繰り返しののちに佐村河内氏の手元には余分な200万ができて、自分好みの交響曲が欲しくなったと。これはゴーストライトと言うより、発注通りに家具をこしらえた職人の仕事である。その出来上がった家具を「日曜大工で作ったんだよね、俺が」とひけらかした、ここだけが良くないのだ。
 「お蔵入りになった」作品が「発表されて驚いた」と会見にもあった。
 「HIROSHIMA」は本来「現代典礼」であった。被爆者をせせら笑いながら書いたものでは断じてないのだ。被災地、障害者、そういう類のキーワードをすべて取り払って何が残るか。
 
 ゆえに思う。そもそもこの件。音楽にからめて考える必要がない。
 新垣さんの人柄が仮に悪くても、才能が無くても、彼の立場は守られるべきである。
 
 この件に関し、新垣さんを擁護・弁護しているつもりでありながら、しかし結果その逆になっている専門家の言説は多くないか。守っているつもりで貶めてはいやしないか。それは新垣さん本人名義の作品が「高級」で、佐村河内名義の作品が「低級」と考えているから起こる。そんなことは世間にとってどうでも良いのである。音楽家の中だけで通用している倫理なのである。
 人の聴く耳が衰えている、価値が分かってない、勉強が足りない、世間は低俗だ。
 機に乗じて発したそれらの言葉は、しばしの時を経て、そのまま返ってくるだろう。
 そのとき後悔するのは誰か。世間ではない。
 その温度差を埋める努力をしなければならないのは世間の方ではない。
 
 こんな事件ひとつで死ぬような音楽なら、さっさと死んだらよろしい。
 そのとき困るのは世間ではない。我々音楽家だ。

 クラシックという、まったくもってわけのわからない世界に突如登場したきわめていかがわしい人物によって世間に引き起こされた事件である。業界としてもなんとかこの事態の収束し、かえって盛り上げていかねばならない。よって、音楽家諸氏には僕から3つの提言がある。

 1.

 結局、あれはいかがなものだったのか。比較対象がなければ判断しようがない。
 そこで、例の指示書と200万の現ナマを持参して、僕の知っている限りの作曲家たちに片っ端から委嘱して回ろうと思う。幸い作曲家の諸氏も「誰でも書ける」「私も書ける」「やっつけでいける」とおっしゃっているので、バイト感覚で80分の劇伴風交響曲を注文通り作るなんて造作なかろう。
 何日間かオーケストラを借りきって、「俺も実際に指示書で交響曲『現代典礼』を作ってみた」と題し、演奏会を開く。きっと企画も大儲け。濡れ手で粟で良いではないか。稼いだ金でしばらく生きていける。誰も損をしない。断られそうになったら「僕、ここで自殺します」と脅すまでだ。
 そのために、今日、totoBIGを買った。
 当せんの暁には嘘偽り無く、隠し立てすることなくここにご報告申し上げ、その一部は僕個人の借金を返済させて頂いたのちに、記者会見を開き、この企画を正式に発表する。しばし待たれよ。
 外れた場合には、上記提案に対してスポンサーをしても良いという企業を広く募集する。
 もちろん僕も、死力を尽くした職人仕事をする用意がある。

 2.

 僕は作曲家の1年を惜しむ。それはのっぴきならない寿命であるから。
 本流ではないとはいえ、人工的に傍流を作るにも玉川上水ほどの犠牲が必要である。出来る限りの損失を補填しなくては、誰かが首をくくらなければならなくなる。プレスしたCDも勿体無い。
 だからレザーの手袋とサングラスを買い、僕が「新佐村河内守」を名乗ろう。
 より若く、より細く、よりチャラくなって帰ってきた新佐村河内守。僕以外の誰にこの役が勤まろうか。彼くらいいかがわしい人間など、この業界には僕しかいまい。
 曲が浮かばない演技も出来よう。少々ガチ過ぎて世間はドン引くかもしれんが、なんとか調整しよう。自伝もゴースト無しでお笑い路線に書き換えよう。「世間を欺いているんですか」と非難されれば「聞こえません」の持ちネタで対応しよう。
 そこであらためて「現代典礼」を演奏して回ろうではないか。
 掃除が面倒くさいので僕は狭いワンルームで結構だ。身の丈にあった生活費を月15万ほど頂いて、印税・興行収入の残りは作曲者本人と業界に投下する。コア企画をバンバン打っても痛くも痒くもない体力が業界につく。全員丸儲けで良いではないか。
 佐村河内名義作品を管理する出版社からのご連絡をお待ち申し上げる。

 3.
 
 教育者としての彼の愛されようはハンパ無い。
 そのような教育者を学校は無碍に処分して良いものだろうか。
 しかし学校も社会の中に存する。社会通念上、厳しい処分は致し方ない部分もあるやも知れぬ。やむなく解雇する必要があれば、代わりに僕を雇えばよろしい。一応は大昔にちょっとした賞も得ている身だから、世間体的にも何とかなろう。
 しかし僕はカリキュラムの組み方も単位の付け方もまったくわからないので、アシスタントとして個人の名義で彼を雇う。つまり、僕のゴースト先生になっていただく。その報酬として、僕が頂く賃金の99%を払い。残り1%は僕がタバコ銭としてめぐんでもらう。世間にも説明がつき、彼は今まで通りに学生たちに愛される。僕も学生たちと学生ホールで麻雀する機会が増える。良いことづくめだ。
 桐朋学園にはぜひご検討されたく思う。

2014年2月8日土曜日

音楽バカ

 我々の意思とは違う次元で、ものが動き始めているのだ。
 
 18年前。1996年と言えば、僕ならちょうど大学に入学した年。「今度自分で作った曲を提出しなきゃいけないんだけど、なに書いていいのかわからなくて」と相談してきた他の科の友人に曲を作って、食堂で昼ご飯を御馳走になった。なにしろ僕も当時からお金が無かった。
 作曲科が書いたとばれぬよう、筆の趣向を少し変えたり。
 僕も立派に、友達の先生を欺いていたと言える。被害者が1人で済んで良かった。
 
 他にも似たような話はたくさんあるが、ここには書かない。
 
 筆の趣向を変えるとは「手を抜く」ことではない。
 少なくとも僕にとって両者はイコールで結ばれない。まったく別の次元の話だ。会社のデスクで手を抜きまくって、帰宅後には人知れず本気の趣味に走る。そういう人だって世の中にはごまんといる。もちろん、仕事に人生を捧げて家では死んでいる、という人もいる。
 筆の趣向を変えるとは、文字通り、筆の趣向を変えるという話である。
 筆の趣向を変えたからといって、それは「嘘」なのではない。筆の趣向を変えて書くことに心血を注ぐのである。全力の精神を必要とする場合だってある。そのようにして苦心して作った作品を演奏者が真摯に演奏してくれる。聴衆が喜んでくれる。嬉しくないわけがない。
 その瞬間、様々な現実の問題を、ふっと忘れてしまう。それが音楽バカだ。
 
 今回の件、新垣さんである意味ありがたかった。
 確信を持って「彼は手を抜いていない」と言えるからだ。五線紙を前にして無心になれる人だからだ。音楽の前でどうしても嘘をつけない人だ。それどころか人の前でも嘘のつけない人だ。今回の件だって墓場まで持っていけば誰も損をしなかっただろうに、だが嘘はつけなかった。
 「彼の情熱と私の情熱が非常に共感しあったことはあったと思います」
 その嘘のつけない人が、よりによってここで嘘をつくだろうか。
 本人名義の作品でも、会場で笑いが起きたら彼は嬉しそうにしてはいまいか。
 佐村河内氏も、新垣さんが苦心する姿を脇で見て、出来上がった曲を「聴いて」、なんとかして世に出さなければと思ったのだろう。動機は純粋で善良と言える。そこで、ずる賢いとも強引とも少々頭が弱いとも言える手段、要するに詐欺に訴えた。(それを新垣さんが当初は知らなかったのは大事なことだと言える。彼は「現代典礼」として交響曲を書いたのだから)
 本来、問題とされるべきは、この一点ではないかと僕には思われる。 
 
 佐村河内氏は、音楽家のみならず、世間よりも世間を理解していたと言える。
 僕は単純に彼のことをバカにすることはできない。本当に、もっと違うかたちで我々と関わってくれたなら、彼はこの業界の、真の意味での救世主にもなれたような気がする。
 ただのダメ人間で一生を終えられたかもしれない彼をして詐欺に走らせた、その理由を、もっと真摯に考えるべきではないのか。
 
 僕は佐村河内名義より、新垣さん本人名義の作品のほうが「好き」だ。
 だが、佐村河内名義の作品を偽物と言うのなら、新垣さん本人名義の作品も偽物であると言わなければならない。彼にとって、両方ともに「趣味」ではなく「仕事」だ。佐村河内名義で手を抜く人ならば、本人名義でも必ずや手を抜くだろう。
 彼が本物の音楽バカであることは、彼を知る人はみな知っている。
 
 いま世間に音楽家が求められている役割は、佐村河内名義の作品と新垣さん本人名義の作品と。どちらが良いのか、優れているのか。それを明らかにすることでは、ない。
 芸術論争を起こしている場合ではない。
 確かに僕は本人名義の作品のほうが俄然「好き」だが、そんなことは世間にとってどうでも良いことだ。「新垣さんはああいう曲を作る人ではなくて」という文脈を繰り出している場合ではない。その類の言葉は「新垣さんは手を抜いて曲を書いてました」「世間を馬鹿にしていました」と世間には映る。その言葉がいったい誰を破滅させる結果になろうか。
 マスコミの言うことをひとつひとつ取り上げて、これは違う、あれも違う、などと言っている場合でもない。それは世論なのだから。どんなにそれが腹立たしくても、ただただ情報を消費しているだけという意味において、パンを食いながら新聞を広げて「ふうん」とつぶやく人々と大差ない。自分のことを棚に上げて言う人の文句は楽しいと枕草子のころから人間は言っているのだ。千年前からということは、千年後もだ。人間のこの部分は未来永劫変わらないのだ。

 今の音楽界は、無理やり外に引っ張りだされた引きこもり息子のようだ。
 部屋に帰りたい、もっと自分の好きなことだけをしていたい、社会に出たくない、放っておいて欲しい。僕だって引きこもりだ。社会に出るのは大嫌いだ。人前なんて大嫌いだ。だが、いま何かをしなければ、我々自身の老後はおろか、未来の才能すらつぶすことになるだろう。
 新垣さん本人の内心は推し量れない。できればそっとしてあげたい。
 だが、もう我々の意思とは関係ないところで「日本のクラシックはうさんくさい業界だ」と思われているのである。悪者にされているのである。貧乏だから反社会的な仕事に手を染めたのか、ああ、かわいそうに、馬鹿だね、ああはなりたくないね、と思われているのである。
 「僕たちは本物なんです」と言って、今さらいったい誰が信じるものか。
 ひとりの音楽家(ありがたいことに本物だ)の窮地を音楽家たちで救えるか。それは、新垣さんや佐村河内氏のような音楽バカたちが、もっと理想的なカタチで手を携え、誰の心も傷つけることなく、思い思いに音楽を楽しめる未来を作れるかどうか、という問題である。
 
 人の顔が千差万別であるように、音楽だって人それぞれだ。
 千差万別の音楽に満ち溢れた世界は、必ずや平和だ。
 
 桐朋学園に対し、引き続き新垣さんが教職の位置にあれるよう活動が始まっている。
 別のややこしい問題にならぬよう前もって言っておきたい。
 その署名サイトは僕が作らせて頂いた。
 本来、僕よりももっと新垣さんに近い人はたくさんいる。僕だって数年以上お会いしていない。だが、会見を見て、お会いした頃の純粋さ、素朴さを毫も失っていないことはすぐに分かった。
 前回の記事を書いて以来、僕は友人たちとたくさんのやりとりをした。新垣さんの教え子から、新垣さんの古い友人、知り合い程度のひとに至るまで。その会話のなかで「署名活動はできないものだろうか」という話題があり、誰も署名活動の始め方を知らなかったので、僕が「ゴーストライター」となって、サイトを作った次第である。
 そこにある文章も僕の文章だが、しかし僕個人だけの意見ではない。
 彼ら、彼女らの意見のひとつひとつを紡ぎあわせて、自分が矢面に立っても構わないと思う人々の想いをまとめて、あのような文章にさせて頂いた。単に僕が作ったというだけの話である。
 僕個人だけの意見ではないと言っても、僕個人の想いとまったく同一だ。
 桐朋学園にはいくつか仕事を頂いたことがあるのみで、国立中退の僕は、それ以上の関係にはない。本来、僕は何もしなくても良かったのかもしれない。そのほうが賢いと思う。
 しかし作った以上、僕にも責任が生じる。
 またこいつは余計なことをしてやがる、と、僕の脳のなかのもうひとりの自分がタバコをふかしながらあきれ返っている。責任なんて言葉、僕は大嫌いなんだが、仕方ない。
 
 世界を変えたいと思うなら、まず自分が変わらなければならない。
 
 ◇追記
 急いで作ったので、取り消しを求める「処分」がまだ下されていないというタイトルの矛盾があります。指摘されて気がつきました。お詫び申し上げます。

2014年2月6日木曜日

温度差

 まさか、この話をまた考えることになるとは。

 新垣さんを僕も存じ上げている。「はじめまして」と挨拶を交わすだけで、およそ人としてもっとも温和、もっとも善良、謙虚、底なしの無欲で、しかもすさまじい才能の持ち主である作曲家であることが即座に分かる稀有な方だ。お金ではなく良心に耐えかねて。彼を少しでも知っていれば、みんな言葉通りに信じる。その「良心に耐えかねて」の意味も、「私は共犯者です」の意味も正しく理解できる。およそ彼とほんの少しでも関わった人のなかで、彼のことを嫌いな人なんか、ひとりもいない。猫好きが猫について語るときのような気持ちにさせる人格の持ち主である。
 だから、会見を見ていて、わなわなした。
 18年で700万円。つまり年収40万に届かず。
 本来下請けに甘んじるべきではない人の、あの新垣さんの貧困の上で虚像が作られている。才能を搾取され続けた弱者に、しかもカメラのフラッシュにも平気で耐えられる毛の生えた心臓の持ち主ではない彼に向かって、「賠償する気がありますか」などと言うなどと。ゴーストライターをしていた彼のゴーストライターになって、もっと上手い言葉を選んで、もっと彼を弁護したい気分になる。
 
 しかしそれは、新垣さんを知っているから言いたくなることであって、世間としての関心事ではない。いま世間は、虚像がどれほど大きな虚像だったかを消費しているところだ。フセインやカダフィよろしく、像を倒し、踏みつけて楽しんでいるところだ。体制側の影武者は同罪に決まっている。
 いちいち記者を責めていても仕方ない。家に帰れば年老いた母がいる。美談を消費した口で虚構を罵る人のことを咎めている場合ではない。捏造された旧石器時代の遺跡にいつまでたっても騙される。それが、何千年と続く世間というものだ。
 世間と業界との温度差を、音楽家は刻み込んだほうがいい。
  
 僕も例外なく某番組でこの会見の様子を見ていた。
 その折、スタジオのコメンテーターとして呼ばれた作曲家よりも、経済評論家のほうが、「謙虚にああおっしゃっていたけど、でも、こんなのはただの発注書で、実際の作曲は違うものでしょう?」と、新垣さんの仕事の実際を、より世間にわかりやすい表現で言葉にできていた。
 僕はこれがとても気にかかる。
 この図の高さはエネルギーで、横は時間軸で。これ面白いですねえ、私が作るんだったら違うものになると思います。世間はそんなことを知りたいのではないのだ。正しく伝えるにしても「正しい」の意味を履き違えている。これでは新垣さんは本当にただの「共犯者」になってしまう。
 「私が作曲する上では必要なものだったと思います」の意味も、作曲家なら分かる。が、じゃあ共作だったんだ、と、世間の何割かは思ったはずだ。この言葉を汲んで「しかしそれをもって共作ということはあり得ません」と言うのが、本来の彼の役割だった。
 この温度差だ。この温度差が、歯がゆい。

 温度差。それが、虚像を生んだ温床になっているのである。
 
 世間の問題については世間に任せる。
 例えば広島という問題について。例えば被災者、例えば障害者という問題について。盲の母を持つ手前、僕は障害者の事情に少々明るい。だが触れない。
 佐村河内氏と新垣さんが今後どうなっていくのか。僕にはわからない。
 
 しかし、音楽家の側の、これからの問題としてだ。
 日々勉強を重ね、練習を重ね、真実を探求し、より価値のあるものを、より正しいものを、より美しいものを。我々は真面目に生きてきた。そうしている間に、野心を抱いた部外者の役者がジャックできるような業界にまで、基礎体力を落としていたのである。
 音楽は音で判断されるべきである。そりゃそうだ。大根を指差して大根であると言うくらいの正論である。だが、スーパーに転がっている大根だって、千葉県の宮崎さんが心を込めて作った有機だとか、宮崎県の千葉さんが真剣に作った無農薬だとか、ストーリーもいっしょに拵えている。ただ1本98円と書かれたものより、愛着も湧く。
 本来、これくらいのストーリーで良かったのである。
 我々は音楽家だけに通じる誠実さに忠実すぎて、たかがこれしきのストーリーも伝えられていない。大事にできていない。世間に見せることができていない。だから一気に大きな嘘がまかり通っていく。もっとこまごまと小さくても、自由自在、多種多様なストーリーに溢れてさえいれば、いったいどこに部外者の入り込む余地があっただろう。

 昨日になってようやく、件の交響曲をはじめて聴いた。
 おそらく彼を知る人にとって誰にとっても衝撃だったろうことは、あの新垣さんが、「あれ」を作っていたことであろうと思われる。彼本人名義の作品を知る人にとって、どうしても彼は「被害者」でなければならない。しかし18年。いくら温和で善良で謙虚、無欲が服を着て歩く人格者の新垣さんでも、ただの忍耐で続くとは思われない。いやいや書くのは僕なら1曲が限度だ。ましてや80分もかかる交響曲を書くなんて。いくら積まれたところで面倒くさいにもほどがある。
 1作あたり平均35万円。佐村河内名義の報酬から考えてあまりに少なすぎるにしても、不当に扱われていると感じるような額ではない。他の収入とあわせて身の丈にあった生活ができる。
 「この関係をやめよう」と新垣さんが言い出したのも、会見によれば今年に入ってからのようである。つまり、テレビ番組で佐村河内氏が露出するようになってからだ。もし、氏が、メディアには出ない姿勢を貫いていたら、どうだっただろう。18年のうちの17年間は、新垣さんは「被害者」でも「共犯者」でもなかったかもしれない。「みっくん」のために書いた「ソナチネ」は、「著作権を放棄」しながらも「弾いてほしい」という新垣さんの言葉に、嘘はないのではないか。
 
 被災者のために、何か心に響くものを…人の影に隠れて。
 新垣さんの性格なら、これも不思議なことには思われない。

 この世界の抱える温度差に、新垣さんは敏感だったのではないか。
 
 それを思えば、無名の「佐村河内守」という作曲家を「耳の聞こえない作曲家」に仕立てあげた佐村河内氏は、反則技を使ってでも、人に新垣さんの想いを聴かせた人ということになる。新垣さんの耳を良いと思えるくらいには、「耳」を持っている人なのである。氏も、新垣さんの存在と才能に、純粋に感動していたはずだ。そこに嘘はないと思える。
 調子に乗ってバカさえしなければ、良かったのだ。
  
 僕は昨年4月に「佐村河内氏の成果は交響曲という名の作品を売ったことだ」と書いた。「作曲家たちはもっと彼に感謝して」、あの曲の良し悪しについて議論しているヒマがあったなら、日本人作家の交響曲が売れた、これ幸いと、手持ちのすべらない話のひとつでも仕込んで、みんなで交響曲を作って便乗商売すべきだと言ったのだが、結果、これだ。
 佐村河内氏のことは言えないくらい、バカである。
 
 いよいよ、この業界の人々の「愛のカタチ」が試される。

2014年1月9日木曜日

ラスカ・ニューイヤーコンサート2014 プログラムノート

 ◇ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)
 ◆オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲 Kv.297b
 モーツァルトの作と伝えられてはいるものの、この協奏交響曲の本当の作者は、実のところ、わかっていない。
 事実としてはっきりしているのは、1778年、彼の22歳のときに「フルート、オーボエ、ホルン、ファゴットと管弦楽のための」協奏交響曲がパリのコンセール・スピリチュエルのために作曲されたことと、その楽譜が何らかの人間模様の果てに失われ、演奏されなかったこと。(「パリ」と呼ばれる交響曲第31番Kv.297も、このときの作曲だ。)
 ここまでの経緯は父レオポルト宛ての書簡に愚痴とともに記されている。「家に帰ったらもう一度楽譜に起こす」とも書き残しているのに、それもまた見つからないため、楽譜の捜索は百年近くも続いた。ケッヘルの目録にタイトルだけが記録されてから約半世紀後、ついに、フルートではなくクラリネットが用いられたこの作品の編曲版と思しき写本が、20世紀初頭に音楽学者の遺品のなかから発見されて、これが現行の協奏交響曲となっている。
 とはいえ、彼の作品とするにはあまりに多くの疑問があったために、真贋論争が巻き起こった。議論の結果、情況証拠から「偽作の可能性が高い」として、現在では「Anh.C14.01」という分類番号が与えられてもいる。念のため申し上げれば、私の耳にも、これはまったく違う人間の音楽に聞こえる。
 モーツァルトでないのなら、いったい誰が、何の目的でこれを書いたのだろう。もしも後の世の誰かがモーツァルトに似せて書いたのなら、それは、世間が思っているほど甘い作業ではない。彼の真似をするのがどんなに大変なことか。難しい編成を選んで、そうとうの苦労があったはずなのに、しかも自分の名を捨てて。
 成立に問題を抱えているにも関わらず、4人のソリストを持つこの曲は、やはり壮観なものだ。協奏ソナタ形式の第1楽章、同じ変ホ長調のアダージョ、冒頭の主題に10の変奏が続く第3楽章は、入れ替わり立ち代りソリストが現れ、まるで永遠に続くダンスの時間のように、楽しい。この作品中もっとも技法的にモーツァルトらしくない音楽なのだが、不思議と、もっともモーツァルトの精神に接近している音楽にも聞こえる。

 ◆モテット「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」(エクスルターテ・ユビラーテ)Kv.165
 冒頭の歌詞から「エクセルターテ・ユビラーテ」(踊れ、喜べ)と呼ばれているこのモテットは、もちろん真筆。1773年、なんと、彼の17歳の作品である。旅先のミラノで、お気に入りだったカストラート歌手ヴェナンツィオ・ラウッツィーニのために作曲されたという。レチタティーヴォを挟んだ2つのアリアに、最後はアレルヤの連呼で結ばれる。最初のアリアがソナタ形式で書かれており、そうとうな技巧も要求されるので、まるで声楽と管弦楽のための協奏曲のようにも聴くことができる。
 歌詞の作者は不明。神への賛美を謳ったラテン語のテキストだ。これはこの作品に限ったことではないのだが、いくら200年前のモーツァルトの時代とはいえ、すでにラテン語ははるか大昔に死んだ言語で、母語として喋っていた人など当然ひとりもいない。私たちにとっての「お経」のような言葉である。そんなラテン語を、彼は音として本能的肉感的に理解して、楽譜に書きつけているふしがある。特に少年の頃のほうが顕著に、ラテン語に忠実で、仔細に見れば小節の単位も、楽想も、めまぐるしく入れ替わっている。普通だったら作品の統一感が崩れるほどのアクロバティックな作曲法にも関わらず、この青磁のような質感は、いったい何なのだろう。
 恐ろしく複雑なのに、決して濁らず、なめらかで、清流のように澄み切っていて、少年モーツァルトの才気は鋭く切れ上がっている。ただ神ひとりのためだけに書こう、なぜなら、僕の才能を本当に理解しているのは神ひとりだけだから…まるで、そんな自信にあふれているかのようだ。

 ◇フランツ・シューベルト(1797~1828)
 ◆交響曲第5番変ロ長調 D.485
 甘く丸い管楽器の響きのなかから、遠い雷光がちらりと覗く。
 クラシック音楽を愛するものにとって、こんなに特別な瞬間は、ない。シューベルト、1816年。彼の19歳の作品である。付点のリズムに絡む小鳥のさえずりのようなフルート。連綿と紡がれる美しい歌に、ふと和声の翳りが差す。モーツァルトが若すぎる死を迎えてから四半世紀、さらに若い死を迎えることになる彼が、親しい友人たちの力を借りながら人生を歩みだしていた。第4番とともにオットー・ハットヴィッヒ家私設のオーケストラのために書かれたと考えられているが、初演などの記録は不明。ハイドン・モーツァルト時代のような、クラリネットもトランペットも欠く2管。ベートーヴェンがすで8つの交響曲を書き終えている頃、この編成はかなり小さいと言える。
 しかし内容は斬新だ。第1楽章の再現は主調ではなく下属調の変ホ長調で現れ、意表を突く転調に足元を脅かせさせられ続ける。調をじわり変容させ続け、濃密に素材を絡ませ合いながら、いつまでも名残り惜しく歌う第2楽章には、早くも「未完成」や「グレート」のような後年の彼の姿が見える。一方、シンプルで歯切れの良いスケルツォ風のメヌエットはト短調。トリオはト長調に転じる。しばしばモーツァルトの交響曲第40番の影響を指摘されるらしいが、地獄の底から引っ張ってきたようなコントラバスの半音のうごめきは、彼にしか書けないものだ。
 第4楽章は、ときに東欧的な素材に遊ぶハイドン、モーツァルトの伝統を踏襲する軽快なアレグロ。起伏に富み華やかだが、楽章のほとんどの部分が短調の響きに支配されている。古典派の最良の果実を着実に吸収し、しかも新たな時代の予見をも落とし込んだこの音楽の奇跡は、シューベルトの才能ゆえなのだろうか、それとも時代がそうさせているのだろうか。この後、彼はますます貧しくなりながらも、さらに独創的な作曲家へと進化していくのである。