騒動以降、様々に書き綴ってきた。
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多くの方にシェアして頂いたことを感謝するとともに、高橋大輔選手のファンの方々には是非ともお詫びを申し上げたかった。高橋選手ご本人やファンの方々の心情をお察ししてはいたものの、僕は新垣さんを通して、音楽のこれからに絞って書くことにした。オリンピックで佐村河内氏の名が流れることについての現実的な問題は、僕が考え調べて書かなくても、きっと他の誰かが書くだろうとも思ったので、ひとまず脇に置かせて頂いた。なにしろ僕も、新垣さんの会見でようやくオリンピックが始まることを知ったほどの、世間知らずである。
高橋選手の演技も拝見した。たいへん感銘を受け、自然と胸が熱くなった。
この騒動自体を許せないのも無理はないだろうと思った。皆様を知ってあえて無視していたというわけではないことをご理解頂き、お許し頂きたく思う。
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得られる情報のなかだけで判断できることをもとに、僕は、できるだけ誰も、佐村河内氏すらも傷つけないよう気を遣いながら、自分の考えを書いてきたつもりだ。この手の話は、本当に最悪の結末すらありうると思っている。それだけは見たくないという想いがあった。
3年前から聞こえるようになったと言えるくらいなのだから、佐村河内氏は何があっても逞しく生きていけるのだろうと思い、彼に対する擁護は、その時点でやめた。
嘘をつくのが仕事の人に真実を要求しても詮ないとは言える。
しかし、「この現状と問題を僕にまざまざと見せてくれた点においても、氏の仕事は、僕にとって価値があったと評価したい」という昨年4月の記事に書いた見解は、ずいぶん意味合いが変わったものの、やはり変わらない。だから彼に対する擁護は一切書き直さずに置く。とんでもない形式ではあったが、我々は何を考えなければならないのかを、彼が業界や世間に与えた事実に変わりはない。
内心、ハリセンで引っ叩き倒したいが。僕は感謝している。
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そろそろこの話題を安全に離陸するために、様々な喩え話を用いて、音楽とは何なのか、作曲とは、作曲家とは何なのかを考えていくことにしよう。世間の抱くクラシック界の「アーティスト像」に彼がちょうど良く符号していたのだとすれば、後々、少々困ったことになる。
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美容室に行ったとしよう。
ヘアカタログに載っているモデルや芸能人を指差し、「この髪型にしてください」と言ったとしたら、美容師はきっと、そのとおりにしてくれるだろうと思う。モデルとは頭蓋骨の形も違えば髪質だって違うかもしれない。顔の塩梅もそれほど良くないかもしれない。けれども、できるだけ客の要望に応えるように、誠実に仕事してくれることだろう。
いくら他人の頭だからといって、ないがしろにはしないだろう。
商売として客の髪をいじる立場にある以上、要求に応えるだけの技量がなければならない。
「僕にはどんな髪型が似合いますか」と訊けば、美容師は考えて、提案もする。しかし、客を背後から走って追いかけて、客の好みではなく自分好みの髪型に切るようなことはしない。
一度でも自分で髪を切って失敗した経験のある人は共感してくださると思うが、見た目に似せることは案外下手でもできる。ただ、それは2週間と持たない。上手の人が切れば4ヶ月くらいそのままでいられる。美容師だって、客の注文通り全て従ったとしても、思った以上にきれいな色が乗ったり、他の誰も一目には気付かないような絶妙の鋏をいれられれば、その日の晩酌は美味かろう。
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このような技量は、学校で学んで習得できるのではない。
たしかに基礎は教えられても、一言の文句も言わずに何度でも付き合ってくれるカット用マネキンと、くしゃみもすればいちゃもんもつけてくる客とでは大違いだ。そのような客を一度でも怒らせたら、後が怖い。ネットに何を書き込まれるかわからない。すべては現場で学ぶのである。
日本の人口1億2千万。ひとりとして同じ人間はいないのだから、みなそれぞれに髪質も違うだろう。そのすべてに対応できる方法を専門学校に通う数年足らずで身につけられるわけがないのである。
学校を出ればなにもかも出来るなどとは、ナンセンスというものだ。
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でも人は髪を切らないと生きていけないのだから、髪型に流行があるのはとても良いことだと思うのだけど、美容師という職業そのものが流行になりすぎると、後々ちょっと困ることになるような気がするんですよ。と、ずいぶん昔に美容師版「料理の鉄人」のような番組があったころ、僕がいつもお世話になっている美容師のSさんがぼやいていた。
これをこのまま翻訳すれば、どんな音楽家の言葉よりも、僕の考えに近い。
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作曲家の第一義は裏方仕事にある。
譜面さえできていれば死んでいても演奏会は成り立つのだから、裏方に相違ない。僕は高橋選手の側ではない。あのスケートのリンクを設計する側の人である。出来てしまえば死んでも問題ない。建築士がまだ生きているのか、それとももう死んでいるのか。深夜から早朝にかけてテレビに齧りついていた方の中に、それを気にしていた方は、おそらくひとりもいるまい。
高橋選手が踊ってくれれば、万事それで良いのである。
しかし建築士がいなかったら高橋選手はそもそもあそこで踊れない。そういうことである。
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日本の社寺を巡るのは、けっこう好きだ。
古刹を見学して、拝んで、いいなあと思う。しかしそのどれを見ても、特別に奇怪な建築が施されているというわけでもない。心が練られた装飾に目を奪われることがあっても、柱があって梁が巡らされた木造の三角屋根という構造自体は、それほど変わらない。
同じような造りの民家もありそうなものなのに、いったい何が違うのだろう。
それは、そこには何百年と通ってきた人々の信仰が染み付いているのである。信仰という言葉が大げさであれば、要するに、大事にされてきたのである。
設計する人がいて、木を切る人がいて、鉋で削る人がいて。
しかし人々の信仰がなければ、敬意とともに大事にされなければ、どんなに立派な建築物だってたちまちに崩壊し、朽ち果てる。古典を古典たらしめたものは、作家の才能だけではない。どんな破格の才能であっても、ひとりの力はやはりひとり分しかない。ちっぽけで頼りないものだ。むしろ作品を長年にわたり大事にしてきた多くの人々の仕事の成果として、古典は存する。
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この意味において、あくまで僕は「聴衆は正しい」と言うのである。
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音楽を作るのは作曲家の仕事であるし、それを弾くのは演奏家の仕事だ。しかし、音楽史を作るのは我々ではなく聴衆の仕事である。もし仮に、聴衆を導こうという意思が音楽家にあるのなら、「そうだね」「その通りだね」と人々に言わせる必要と努力を考えねばならない。
何やら良いことを言おうとして「生きていくのに金なんて関係ないんだよ」と表現してはならない。金持ちに言われてもカチンとくるし、かといって貧乏人に言われても説得力がない。
ただ一言、「僕にはお金がない」と言えば、「そうだね」としか返しようがないのである。
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どうにもアーティストという単語を聞くと、僕は首や背中が痒くなるのだ。
売文渡世というなかなか味わい深い単語があったが、あれはもう死語なのだろうか。どんな偉そうなことを言ったところで、やっていることと言えば、所詮、これに過ぎないのだが。
そんな毎日のなかで、たまに、してやったと思う線が一本きれいに引けたりすることがある。
その日の晩酌は、実に美味い。裏方仕事の喜びである。
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「あそこのトリル。大好きな子のね乳首を、こう、くすぐるようにね…」
とある学生と昨年末に二人きりで飲んだ。彼は酒を片手に恍惚と、ある曲のピアノの打鍵について、このような表現で語っていた。僕は器用に動く彼のやさしい指先を見つめながら、ああ、日本の音楽界にもいい感じのダメ人間が着々と育っているのだなあと思って、嬉しかった。「すべて日本の女の足の坐りだこを撫でてやりたいよ」という中野重治の表現を、少し思い出したりした。
もはや一過性の欲望を超えて、目的もなく、全霊でそうせざるを得ないような。僕はこの一文で号泣したものだ。
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山梨や秩父の雪害が心配される今日だが、昨日、一昨日と、僕は遅れに遅れた作業のため部屋に篭もりきりだった。連絡のメッセージがくるたびにFacebookを開くと、雪だるまとも言えないような雪だるまがいくつもフィードにあがっている。ハチ公が2匹になって、渋谷でスキーをする人がいて。たがが外れると、東京という街もまだまだ無邪気なのだなあと思って、嬉しかった。
彼らの晩酌も、たいそう美味かったことだろう。