2014年2月6日木曜日

温度差

 まさか、この話をまた考えることになるとは。

 新垣さんを僕も存じ上げている。「はじめまして」と挨拶を交わすだけで、およそ人としてもっとも温和、もっとも善良、謙虚、底なしの無欲で、しかもすさまじい才能の持ち主である作曲家であることが即座に分かる稀有な方だ。お金ではなく良心に耐えかねて。彼を少しでも知っていれば、みんな言葉通りに信じる。その「良心に耐えかねて」の意味も、「私は共犯者です」の意味も正しく理解できる。およそ彼とほんの少しでも関わった人のなかで、彼のことを嫌いな人なんか、ひとりもいない。猫好きが猫について語るときのような気持ちにさせる人格の持ち主である。
 だから、会見を見ていて、わなわなした。
 18年で700万円。つまり年収40万に届かず。
 本来下請けに甘んじるべきではない人の、あの新垣さんの貧困の上で虚像が作られている。才能を搾取され続けた弱者に、しかもカメラのフラッシュにも平気で耐えられる毛の生えた心臓の持ち主ではない彼に向かって、「賠償する気がありますか」などと言うなどと。ゴーストライターをしていた彼のゴーストライターになって、もっと上手い言葉を選んで、もっと彼を弁護したい気分になる。
 
 しかしそれは、新垣さんを知っているから言いたくなることであって、世間としての関心事ではない。いま世間は、虚像がどれほど大きな虚像だったかを消費しているところだ。フセインやカダフィよろしく、像を倒し、踏みつけて楽しんでいるところだ。体制側の影武者は同罪に決まっている。
 いちいち記者を責めていても仕方ない。家に帰れば年老いた母がいる。美談を消費した口で虚構を罵る人のことを咎めている場合ではない。捏造された旧石器時代の遺跡にいつまでたっても騙される。それが、何千年と続く世間というものだ。
 世間と業界との温度差を、音楽家は刻み込んだほうがいい。
  
 僕も例外なく某番組でこの会見の様子を見ていた。
 その折、スタジオのコメンテーターとして呼ばれた作曲家よりも、経済評論家のほうが、「謙虚にああおっしゃっていたけど、でも、こんなのはただの発注書で、実際の作曲は違うものでしょう?」と、新垣さんの仕事の実際を、より世間にわかりやすい表現で言葉にできていた。
 僕はこれがとても気にかかる。
 この図の高さはエネルギーで、横は時間軸で。これ面白いですねえ、私が作るんだったら違うものになると思います。世間はそんなことを知りたいのではないのだ。正しく伝えるにしても「正しい」の意味を履き違えている。これでは新垣さんは本当にただの「共犯者」になってしまう。
 「私が作曲する上では必要なものだったと思います」の意味も、作曲家なら分かる。が、じゃあ共作だったんだ、と、世間の何割かは思ったはずだ。この言葉を汲んで「しかしそれをもって共作ということはあり得ません」と言うのが、本来の彼の役割だった。
 この温度差だ。この温度差が、歯がゆい。

 温度差。それが、虚像を生んだ温床になっているのである。
 
 世間の問題については世間に任せる。
 例えば広島という問題について。例えば被災者、例えば障害者という問題について。盲の母を持つ手前、僕は障害者の事情に少々明るい。だが触れない。
 佐村河内氏と新垣さんが今後どうなっていくのか。僕にはわからない。
 
 しかし、音楽家の側の、これからの問題としてだ。
 日々勉強を重ね、練習を重ね、真実を探求し、より価値のあるものを、より正しいものを、より美しいものを。我々は真面目に生きてきた。そうしている間に、野心を抱いた部外者の役者がジャックできるような業界にまで、基礎体力を落としていたのである。
 音楽は音で判断されるべきである。そりゃそうだ。大根を指差して大根であると言うくらいの正論である。だが、スーパーに転がっている大根だって、千葉県の宮崎さんが心を込めて作った有機だとか、宮崎県の千葉さんが真剣に作った無農薬だとか、ストーリーもいっしょに拵えている。ただ1本98円と書かれたものより、愛着も湧く。
 本来、これくらいのストーリーで良かったのである。
 我々は音楽家だけに通じる誠実さに忠実すぎて、たかがこれしきのストーリーも伝えられていない。大事にできていない。世間に見せることができていない。だから一気に大きな嘘がまかり通っていく。もっとこまごまと小さくても、自由自在、多種多様なストーリーに溢れてさえいれば、いったいどこに部外者の入り込む余地があっただろう。

 昨日になってようやく、件の交響曲をはじめて聴いた。
 おそらく彼を知る人にとって誰にとっても衝撃だったろうことは、あの新垣さんが、「あれ」を作っていたことであろうと思われる。彼本人名義の作品を知る人にとって、どうしても彼は「被害者」でなければならない。しかし18年。いくら温和で善良で謙虚、無欲が服を着て歩く人格者の新垣さんでも、ただの忍耐で続くとは思われない。いやいや書くのは僕なら1曲が限度だ。ましてや80分もかかる交響曲を書くなんて。いくら積まれたところで面倒くさいにもほどがある。
 1作あたり平均35万円。佐村河内名義の報酬から考えてあまりに少なすぎるにしても、不当に扱われていると感じるような額ではない。他の収入とあわせて身の丈にあった生活ができる。
 「この関係をやめよう」と新垣さんが言い出したのも、会見によれば今年に入ってからのようである。つまり、テレビ番組で佐村河内氏が露出するようになってからだ。もし、氏が、メディアには出ない姿勢を貫いていたら、どうだっただろう。18年のうちの17年間は、新垣さんは「被害者」でも「共犯者」でもなかったかもしれない。「みっくん」のために書いた「ソナチネ」は、「著作権を放棄」しながらも「弾いてほしい」という新垣さんの言葉に、嘘はないのではないか。
 
 被災者のために、何か心に響くものを…人の影に隠れて。
 新垣さんの性格なら、これも不思議なことには思われない。

 この世界の抱える温度差に、新垣さんは敏感だったのではないか。
 
 それを思えば、無名の「佐村河内守」という作曲家を「耳の聞こえない作曲家」に仕立てあげた佐村河内氏は、反則技を使ってでも、人に新垣さんの想いを聴かせた人ということになる。新垣さんの耳を良いと思えるくらいには、「耳」を持っている人なのである。氏も、新垣さんの存在と才能に、純粋に感動していたはずだ。そこに嘘はないと思える。
 調子に乗ってバカさえしなければ、良かったのだ。
  
 僕は昨年4月に「佐村河内氏の成果は交響曲という名の作品を売ったことだ」と書いた。「作曲家たちはもっと彼に感謝して」、あの曲の良し悪しについて議論しているヒマがあったなら、日本人作家の交響曲が売れた、これ幸いと、手持ちのすべらない話のひとつでも仕込んで、みんなで交響曲を作って便乗商売すべきだと言ったのだが、結果、これだ。
 佐村河内氏のことは言えないくらい、バカである。
 
 いよいよ、この業界の人々の「愛のカタチ」が試される。