「一寸先は闇」という。
戦争末期の食糧難で手持ちの米が尽きたので、夜中にすいとんを作って食べた。管理人をするのもなかなか大変なものだ。学生や音楽家たちと相談しながら、様々な対応に追われた。本来ならば仕上がっているはずの五線紙が白くて、焦る。
「後は野となれ山となれ」の今日この頃。もうちょっと希望のある言葉がほしい。
「もし神が望むなら」アラブ人が未来を語るときに良く付け加える言葉だそうだ。
新垣隆という人が記者会見に臨んでいる。
彼を知る多くの音楽家たちの胸のうちに、どうにも動かしがたいひとつの確信が湧いたのだ。「いくら才能があっても、人望がなければこのような展開にはならない。信頼はお金では買えない」と、僕の後輩も書いていた。今回の騒動は僕にとっても他人事ではないのだが、あの場に立った人間が僕だったなら、僕にはまったく人望が無いので、きっとこのような展開にはならなかった。ああ、どうせお金だろう、売名行為だろう、で終わったのだろう。
こと細かく検証していけば、事実の確認は必ず事実に追いつく。
しかし、そのときを待っている場合ではなかったのである。
だからこれは管理人としてではなく、ひとりの作曲家として個人の想いを綴る。
生きているだけで充分だとする人も、世の中にはいるのである。
多少貧乏でも構わないから、その分、自分の思うところ、信じるところをし続けたい。そういう種類の「アーティスト」もいるのである。いい生活は望んでいないが、いい活動をしたい。相手が喜んでくれるなら、相手も無い袖は振れないだろうから、出せる範囲で構わない。もやしや納豆や豆腐ばかりで、肉が当分食えてなくても、仕事には嘘をつけない。そういう人もいるのである。
むしろ、どうにも僕の周りは、そういう貧乏人ばかりだ。
世界を股にかけ、活躍をして、衆目を浴びて。それはそれでもちろん立派なことなのだが、それだけがアーティストの生き様なのではない。吹けば飛ぶような小さな世界でもそれを大事にする。そういう人もいるのだ。むしろそういう人がいなければ、毛細血管のように世界の隅々に行き渡っていなければ、世の音楽というものは継続できないのである。
何が現代の音楽なのか。それを決めるのは我々ではない。
もう少し時代を経てから、後の時代の専門家や愛好家、世間が、この時代を振り返って、「あのへんかもしれない」と思うことで決まるのである。「早すぎた先駆者」も「無視された不遇の天才」も「時代錯誤の作曲家」も、ようやくここで定まるのである。
今では人気があり、ふつうに学生たちの口にものぼるコルンゴルトも、僕の学生のころにはそれほど重視されていなかった。この名前を知っているのは、わりとマニアックな種類の学生ばかりだった。たかが10年少々である。こういうことはよくあることなのだ。
この点において、人々はみな、遠視なのである。
いや、後の時代は、後の時代の人々の必要に応じて先の時代の音楽を選び、それを聴いているだけとも言える。ならば、我々のしていることが壮大な人生の徒労、もしくは暇つぶしに終わっても、なにを悲しむ必要があろう。我々の音楽は我々の人生を支えている。それで良いではないか。
商業用の音楽と、芸術音楽と。
騒動のなかでこの手の議論が噴出した。僕が思うに、それは、今の時代の人間を支えているものに過ぎないという意味において、まったく同じものだ。
後の時代には様々な価値が逆転する可能性も含んでいるということである。
様々な人生があって良いのだ。
様々な音楽があってしかるべきであるし、それは優劣の話ではないのだ。
僕はクラシックという分野が好きであるけれども、いまだにブルックナーを好きになれない。何度聴いても申し訳ないことに好きになれない。たぶん性格も合わない。だが、自分が好きになれないからという理由だけで屁理屈をこねて優れていないと言うことを僕はしない。
僕がもしもブルックナーなら、もうそろそろ人生が始まろうかという歳だ。彼が大編成を書き始めるのは40歳近くになってからだ。その歳を越したら好きになれるだろうか。自信はない。僕は自分の人生に彼の音楽を必要としないまま終わるかもしれない。とは言っても、僕は彼の信じるものを、彼の人生を全面的に支持する。そういうことである。
「これは高尚なものである」と本人が思っていても、周りがそう思わなかったら、それは高尚ではない。低俗なものを「これは低俗なものである」と本人が割りきって、寝食を忘れて本気の低俗を目指したら、それはもはや行いにおいて、芸術との区別がつかない。
クラシックの音楽家たちが、みな小さい頃からピアノやヴァイオリンを始めて、親の意思や先生の意思を丸呑みし、大人になってもそれを疑問と思わずに続けている。そういうわけではない。自分の声や木や動物の皮や腸や金属などが空気に乗って心地よく響く振動がたまらないのである。武道館で小刻みに身体を揺らしながら手を挙げ声を上げている方々の感動や熱狂と同じように、我々にとってはたまらないものなのである。増幅された大音量のかわりに、静寂のなかにそっと置かれる一音が、生きていてよかったと思わせるものなのである。
そうして、修道士的な生活を好む人も、いる。
そんな修道士のひとりが、あるひとりのために彼の好みに応じて書いた。その音楽が、自分の気がつかない場所で詐欺商法で売りさばかれているのを世に遅れること数ヶ月の後に知り、最後の最後まで悔恨を迫ったが叶わず、国際的な大問題になる前に、もろとも自爆テロを起こした。(去年の流行語で言えば「倍返し」だ)それが、僕の推測するこの騒動の顛末である。
自分の書いたものの後を追わないという種類の人もいる。分野を問わずゴーストライターは今の世に必要なものなのだから、そこが問題ではないのだ。新垣さんのコメントも会見も、そこについての社会の倫理を問うているものではないように僕には解釈できる。
著作権は放棄する。権利のことは良くわからない。五線紙上の計算ができても帳簿がつけられない。その手の本を読むなら楽譜を読むほうが楽だ。そういう人がいる。だから音楽家になってしまったような人たち。そういう人たちがいる。それを世間が甘いと言えば、甘いと言うしかないだろうと思う。
だが本当に一番良いのは、そういう人が無意味な血を流さない社会のあることだ。
キダ・タローが「私までうさんくさい目で見られる」と言ったり、Revoが「佐村河内氏に間違えられた。風評被害だ」と言ったり。少々不謹慎な物言いをすれば、少しこの件を楽しむ余裕が社会にも生まれてきたような気がする。世間はなんだかんだで、いろいろなことを上手く調整しながら、ほどよく忘れていきながら、万事丸く収めていくのだ。
苦悩を突き抜け歓喜へ至る。ベートーヴェンが本当にこう言ったかどうか知らないが。しかし僕は「すべての安楽は困苦を通過せざるべからず」という、漱石が描いた「吾輩」の真理を信じる。
僕は、クラシックの何が魅力かと尋ねられたら「ダメ人間がもっともダメ人間のままで輝ける分野の音楽だから」と答えるものだから。わざわざ見た目にかっこ良くなくしなくても、かっこ悪いままで輝けるから。様々な人間を、様々な人生を、丸のまま肯定できるものだから。
進むべき道はない。だが、いくら進みたくなくても時計の針は勝手に進んでしまう。だから、科学と同様の進歩を音楽にわざわざ脅迫する必要はない。進歩を自らに課すのはその音楽家の選択であって、もちろんそういう人生があっていい。だが、そうせざるを得ない業のようなものも含めて、いつまでたっても人間はどうしようもない存在だがそれで良いではないかと、僕は思うのである。
どんなものであれ、音楽がありさえすれば、それで良いのだ。
願わくは、様々な音楽に満ちた未来であることを。インシャーアッラー。
あと締切に間に合えば良いのだが。インシャーアッラー。