2014年6月8日日曜日
「新垣隆コレクション」を聴く
白寿ホールで「新垣隆コレクション」を聴く。
* * *
さすがに感慨深いものがあった。
2月の会見の時点で、まさかこの日がこんなに早く来るとは思わなかった。しかも、満杯の客席で。講師の委嘱を辞退するという形式で桐朋学園を退職され、当初の予定にない形での名誉回復の成就と言える。署名サイトは今日現在で19,370人の賛同を頂いている。この2万人近い方々の善意がなければ叶わなかったことだ。発起人のひとりとして、今日の日が嬉しくないわけがない。
* * *
演目にはバルトーク、バッハ、ハイドンと新垣さん自身の作品が並んだ。
新垣さんの作品は、前半に木管五重奏のための「明るい街角で」と、独奏チェロのための「見えないパッサカリア」が演奏された。言わば「現代音楽」的な作品群である。おそらく「パッサカリア」のほうが意図を汲みやすいだろう。バッハの無伴奏の断片やシューベルト「未完成」などの断片が入り混じって「見えない」印象を強める。曲間のトークでもパラフレーズという言葉を新垣さんは多用していた。「様々な音楽の事象の並列(パッチワーク)」という言葉もプログラムノートに書いてある。
それが新垣さんの最たる手法であるわけだ。
僕の手元には本人から預かった「レクイエム」と「ソナチネ」の楽譜がある。もちろん、佐村河内氏名義で発表された例のものだ。詳細に読み解いていくと、これもまたゲーム音楽、ポピュラー音楽の要素を下敷きにクラシックの伝統や演奏技術を投入したパラフレーズであることを発見する。あからさまに示すのではなく、非常になめらかに差異が繋いであるため、なかなか気づきにくい。
クラシックの伝統と言っても、交響曲ではブルックナーやマーラーの名を挙げる人が多くいたが、これはあまり正しくない。フランス・ベルギーロマン派から近代、ある意味においてはプーランクが古典のフリをするときの技術に近い。この点、佐村河内氏もよくわかっていないだろう。彼が「バロック風の主題」と言った部分は、バロックではなく、フランクのオルガン曲の技術に近い。非和声音を無造作に投げ出す際の記譜は近代ですらない。文字通りの現代である。近作のほうがいっそう柔軟な発想で丁寧に書かれている。12年前の交響曲ではまだ依頼主の機嫌を伺っている部分があるように思えるが、しかし、リゲティあたりまでの楽器法を確認することもできる。
こうしてみると、今日演奏された本人名義の作品と、世間を騒がせた佐村河内氏名義の作品は、やはり同じ人間の筆であって(当たり前の話だが)本質的な部分で何かが違うというものではない。指示書と楽譜との作品としての同一性は証明され得るのか。もうすでに答えを書いてしまったようなものではあるが、また改めて一項を設けることになるかもしれない。
* * *
僕が個人的に興味深く聴いたのは、きむらゆういち作の絵本を基にした「ぼくらはオコジョのおまわりさん」で、童謡調の音楽だが、ささやかでかわいらしい事件から事件、そして日常へ、場面転換に凝った転調の仕掛けが施されていて、そのひとつひとつに驚かされた(「ソナチネ」にもマニアックとも言える転調が多くあった。大谷康子氏、藤井一興氏の録音はスタイリッシュで良いものだが、そのような要素を泥臭く強調する別の解釈も充分に可能だ)。二挺のヴァイオリンの書法も実に芸が細かい。プロジェクターで絵本も映しだされ、新垣さんの個性がもっとも聴衆に把握されやすい作品であったと思われる。
ハイドンのピアノ協奏曲ではカデンツァを自作していて、これが遊び心に満ちていた。知らない街の路地を一本入って迷子になったような、高いところに登りすぎて降りられなくなった猫のような。それが奇妙に元の鞘におさまって、僕はあやうく吹き出しそうになった。
遊び心。ハイドンのスコアから学ぶべきは、まさにこれだ。僕はいつもハイドンのスコアを見て吹き出しそうになる。豪華で退屈な太平の逸民を地で行く姿だ。その意味で、実にハイドンの精神にかなったカデンツァだった。「ハイドンの自由闊達な精神こそ私達の目指すところである」との一文の下に、僕もよろこんで署名したい。
* * *
クラシックに携わる以上は歴史にも触れざるを得ないから、過去についてはいろいろ語ることもできる。まだ起きていない未来をあれこれ勝手に予言することもできる。しかし本当は、現在というもののたいせつさだ。時間には過去も未来もない。ただただ永遠に現在があるだけだ。今現在という時間をどれだけどのように共有するのか、それが音楽の本質であろう。
しかし、音楽の現場で作曲家ができることなど限られている。
所詮、我々は台本書きに過ぎない。演じてくれる演奏者がいなければ作曲家などむなしいものだ。きっと演奏家はまったく正反対のことを言うのだろう。演奏家は出来上がった楽譜から音楽を探訪する。作曲家は白紙の状態から音楽を把握する。有と無。ひとつの世界を正反対から眺めるのは、なぜなら世界を音にして音楽にするためだ。だから最後は聴衆に行き着く。世界とは非常に雑多な立方のパッチワークに他ならない。作曲家でもなく、演奏家でもなく、聴衆のなかに、最終的に世界がひとつの音楽となって帰結する。聴衆がいなければ音楽家などむなしいものだ。
作曲家、演奏家、そして聴衆。やわらかくてあたたかな手で協力された演奏会が、ようやくひとつのカタチになった。これがはじまりであろう。僕たちは5年後10年後の世界の5年前10年前を生きている。日本の音楽にとって良い時代がくる予感に、僕は胸を躍らせている。