2017年2月23日木曜日

音楽の冗談、の常談(1)はじめに

 モーツァルト作曲、『音楽の冗談』Kv.522。
 1789年の完成。ウィーン古典派音楽芸術の王道中の王道、鉄壁の完成度を誇る彼の作品群のなかで、ひときわ珍妙で、頭を抱える一曲だ。あの素晴らしい弦楽五重奏曲や、代表的なオペラである『ドン・ジョヴァンニ』を作る一方で、二年にも渡る試作を重ね、入念に準備をし、彼は冗談を書いていたのだ。作品目録には6月14日の日付で『Ein Musikalischer Spaß』のタイトルを、自らの手で堂々と書き込んでいる。彼を一流の音楽家として育て上げた教師でもある父レオポルトの死から二週間で完成を見たというのも、なかなかにして冗談である。
 ちなみに同年8月には、ほぼ同規模の作品でありながら『音楽の冗談』とは対極にあるような、彼本来の信条である洗練の極致を象徴する、かの有名な『アイネ・クライネ・ナハトムジークKv.525』が作曲されている。

 いったいなぜ、彼はこんな作品を書こうと思い立ったのだろう。
 「同時代の半可通な作曲家たちを揶揄するため」「下手な演奏家や不備だらけの写譜屋を皮肉るため」などという説明が、長らく伝えられ、また信じられてきた。『村の音楽家』という副題も、後の時代の誰かによって付けられた。確かに、きっかけはそんなものかもしれない。作曲家とはそういう生き物だということを僕も身をもって知っているのだが、それで片付けてしまうには、あまりにも気になる点がいくつかある。


 たとえば、第1楽章は不可分でシンメトリカルな「なにかがひとつ足りない」7小節構造の主題を持っている。このようなことはすぐに指摘できる。あるいは、10小節目のヴィオラに現れる導音が主音に向かわない。14小節目の属七の第7音が下がらない。連結の間違い、不手際。このようなこともすぐに指摘できる。
 これをもって「無学な音楽家の揶揄」というなら、そうかもしれない。ただ、「主音に向かわない導音」であるとか、「I度の第3音に向かわない属七の第7音」であるとか、その手の類の冗談は、この先一度も現れない。一度もだ。再現部の主題は4小節に短縮されており、声部の進行には「間違い」もない。
 作曲の目的が揶揄にあるなら、これほど無学な者を揶揄する方法はない。最後まで徹底されて良いはずだ。しかし彼はポケットスコアの一ページ分でこれを捨ててしまう。なぜだろうか。この「なぜ」を、史実ではなく作品を読み込むことで解いていくのが本稿の目的だが、その前に、どうしても言っておかなければならないことがある。

 半年前のものも、あっという間に古びてしまう。それが冗談の宿命だ。ましてや、もう200年以上も前の冗談であるから、現代のわたしたちがそれに気付けなくても致し方ない部分はある。おそらく、現代に生きるわたしたちにも即座に通用する冗談は、メヌエット楽章の調子はずれなホルンと、曲尾の不協和音くらいだろう。大多数の人びとは、なにかちぐはぐな印象を受けつつも、それなりに美しい音楽として聴いてしまうのが実情ではないだろうか。そのせいか、いくつかの解説を拾い集めてみても、やはり、「ツッコミ」を間違えている方々が散見される。モーツァルト氏のボケ倒しを正しく味わうために、彼になり代わり、それらの「ツッコミ」にツッコんでおきたい。

 たとえば「木管が無い」のが冗談であるという人がいる。
 その解釈では、『音楽の冗談』と同じく弦と二本のホルンだけで演奏される『ディヴェルティメントKv.334』も冗談になってしまう。「メヌエットが第二楽章になっている」のが冗談だという人もいる。ハイドンに捧げた弦楽四重奏曲Kv.464も第二楽章にメヌエットがある。父レオポルトの筆にも同じ構成のものがある。

 「チェロを抜いたコントラバスのみで低音を担当している」のが冗談だという人もいる。それでは、二挺のヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバスの4人が独奏する『セレナータ・ノットゥルナKv.239』が、弦楽、ティンパニと冗談のための合奏協奏曲になってしまう。たしかに『冗談』の扉絵にはコントラバスがひとりいるだけだが、彼の指示「Basso」が単に「低音」の意味で書かれているなら、コントラバスひとりにこだわる必要はない。そもそも、チェロを加えて低音を厚くしたところで、この曲の冗談は微動だにしない。冗談は、編成にはないのだ。
 
 第一楽章、第四楽章の演奏時間の短さを根拠として、この作品が全体としてバランスが悪く、それが冗談であるという人がいる。これは、一理はある。
 第一楽章は、不可分な関係にある七小節構造の第一主題に象徴されるように、素材がすべて尻切れの状態で提示されるので、この楽章が本来持つべき規模に至っていないと言える。第二楽章もまた、特にトリオ部において、まるで音階練習のような素材を二度も繰り返すという冗長な表現を採っているので、この楽章が本来持つべき規模よりも大きく、そのような意味では、バランスが悪いと言っても差し支えない。
 しかし、それは全体における演奏時間の問題ではなく、楽章内における素材の問題である。緩徐楽章の規模には問題もなく、最終楽章に至っては、ここでは比較できないものをあえて比較の対象として挙げるけれども、彼の最高傑作のひとつである『交響曲第41番ハ長調Kv.551』と同じくフーガを主軸にして構成されており、その小節数は堂々の458を数える。決してアンバランスな規模であるとは言えない。もし、ソナタ楽章とフィナーレの演奏時間が短いことが冗談であるというならば、弦楽四重奏曲Kv.589もまた、冗談になってしまうだろう。

 時おり、弦楽四重奏曲Kv.464の第三楽章が「規模の大きな変奏曲」だと紹介されることがある。確かに素晴らしい変奏曲だが、他の楽章に比べて特に規模が大きいというわけではない。ソナタ楽章の後半を繰り返さないことが演奏の慣例となっている今日でも、変奏曲の繰り返しは省略しないのが伝統となっているので、演奏時間もまた、それに応じて長くならざるを得ないのである。専門家の文章にも、時おり、こういうものを見つける。少し気をつけていただきたいものだ。

 ホルンが全曲を通して濫用されすぎていることを指摘するのは、間違っていない。調を象徴、または決定する場面において使うべき楽器にトリルを多用するであるとか、ストップ音を駆使しなければ演奏できない音符を不必要に書くであるとかは、もちろん彼の意図としてあっただろうし、当時の楽器ならさぞかし残念な響きになったと思う。が、それらを現代のホルンで、しかも美しく吹いたとしても、決してこの曲の本質的な冗談は消えないことを強調しておきたい。

 では、これから『音楽の冗談』を少しずつ紐解いていこう。
 音楽史上最大のかっこつけたがりである彼は、とにかく苦労の痕跡を残さない。『ハイドン・セット』のような弦楽四重奏の草稿には大量のバツ印がつけられている。完成を見なかった草案には本当に彼の筆なのかと疑うようなひどいものも多くある。彼は苦悩しているのだ。それでも最終的には、何の苦労もなく書いたように、きれいに、なめらかに、完璧に仕上げてしまう。それは彼の「男の美学」のようなもので、その隙の無さゆえ、苦労知らずの天才、頭のなかですべて出来上がっている人、というような伝説が生まれた。そのように彼は思われたがったのだから、そう思っておくのが良いとも言えるが、その立ち位置を完徹するのは天才とはいえ並のことではない。誰にも本心を見せないということだ。孤独なのである。天才ならば孤独に耐えられるという式は成り立たない。そうして、自身の調和を保つため、彼はわざわざ人に向かって隙を見せるようになる。
 『音楽の冗談』は、彼が自分から開いて見せた隙だ。
 その隙間を覗くことで、わたしたちは、わたしたちが失った200年前の「笑いのツボ」のみならず、彼の創作のほんとうのところを知ることになる。(つづく)