2017年2月16日木曜日

車に乗れないということは

 僕は車に乗れません。
 免許を持ってないんです。取れる気もしません。のみならず、車を運転するという想像がまったくできない。どうやら死ぬまで東京近郊に住むしかなさそうで、それにはちょっとめげてます。あと、運転免許証で買えるタバコの自販機の存在にも、軽くイラっとしてます。
 車に乗れないということは、「交通手段がひとつないということ」にとどまらないんです。およそ車に乗る人なら当たり前のように入ってくる情報がひとつも入ってこない。認識できないんです。最たるものは車種名で、覚えられないのは当然のこととして、車体の像とまったく結びつかない。あれに乗っている、これに乗っている、という言葉の意味するところの社会的な符牒が読解できない。要するに、なにがなにやらさっぱりわかりません。僕のできる車の判別は、大きい、小さい、赤い、黒い、その程度のもの。なので、ひき逃げ事件を起こす予定のある方は僕の前がねらい目です。
 記憶力は決して悪いほうではないと思ってますが、脳のなかの車に関する回路が壊死しているようです。余談ですが、ボウリングの球をまっすぐ投げる回路も見当たりません。

 

 ◇生物から見た世界(岩波文庫)
 ユクスキュル/クリサート著 日高敏隆/羽田節子訳

 「和声のはなし」でいちばん最初に触れた本でした。
 ピアノの人はピアノしか聴かない、吹奏楽の人は吹奏楽しか聴かない的な現象は「環世界」のひとことで説明できるような気がしますが、作曲家という人はどっちも書けなきゃ商売にならない(はずな)のでどっちも聴きます。しかも「歌を書いたらピアノの書き方が進化した」「金管を書いたら弦の鳴りが良くなった」みたいな経験をたくさんするので、ひとりの作曲家を深く探る必要のあるとき、やはり、ひとつの編成に頼るのは効率の良いこととは言えないでしょう。
 ラフマニノフやラヴェルを弾く人は彼らの歌曲も研究したほうが良いでしょう。プロコフィエフの第9ソナタあたりは3Dメガネが欲しくなる譜ヅラをしてますが、弦楽四重奏曲第2番の冒頭などを事前に見ておけば、「別の星からやってくる」という第3のフレーズの扱い方を学べます。あのひと弦楽四重奏なんて書いてたの?って思うピアニストは多いと思うので、参考までに。

 音大って場所は、あんなにいろんな楽器の人がひとつ屋根の下にいるのに、どうして他の楽器の先生からレッスンを受けるという経験を持たせてあげないんだろう、と僕は常々疑問に思っています。セ・パ交流戦の要領で、歌の先生から受けるピアノのレッスンがあっても良いじゃないですか。ピアノの人間はしばしば息を忘れるから勉強になるはずです。あとは「わたしこんな内声弾きたくない」の超主観的な一言で終わるヴィオラの先生による和声のレッスンとか、面白いでしょうね。
 先生が自分の楽器の立場から好き勝手にモノを言う、というだけで、これは充分機能を果たすでしょう。かつおだけじゃなく昆布も使えば、もっとおいしいお出汁が取れる要領で、複眼的な教育が成就すれば、魅力的な人材も自然と育つのではないかと思います。
 僕には「音大の先生になる」という回路も欠けているので、どなたか。

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 曲を作るというのは、作曲家にとって「当たり前」のことです。車に乗って近くのイオンに行くくらい当たり前の動作です。特別な思いがあろうとなかろうと書けて当たり前なんです。美術や演劇の世界あるいは巷のバンドマンたちと違って、クラシックの世界では作家が遠い存在になってしまったので、このあたり、説明してもピンと来ない方がいる。
 ラフマニノフのカデンツァを弾いている最中のソリストにインタビューのマイクを向けて「いまどんな気持ちで弾いてますか?」とは訊けないでしょう。舞台にこそ乗ってませんけど、ときには無精ひげに寝巻きのままですけど、厳しい締め切り直前の作家の心境は、それに近いものがあると思われます。なにも「200年残る傑作を書け」などという注文をしているわけではないので、演奏家の方々も、一度くらいはゼロから仕舞いまで一曲書いてみるという経験を持ったほうが良いでしょう。1分の曲で充分です。ただ弾くより、よほどわかることもあろうかと思います。