誰だって一度くらいはババ抜きで遊んだこともあるでしょう。
きわめてシンプルなゲームですけど、最後の手持ちのババをいかに相手に押し付けるか、というところに、駆け引きの楽しさが生まれます。一度でもこれで遊んだことのある人なら、わざわざ一枚「これを取れ」と出っ張らせた経験だってあるでしょう。ババのほうを出っ張らせる人もいるし、ババじゃないほうを出っ張らせる人もいる。ババじゃないほうを取られそうになったとき、あえて嬉しそうに口をほころばせ、相手を惑わせる性格の悪い人もいます。
たった一枚ジョーカーを忍ばせておくだけで種々の人間模様が観察できる。それが、こういったゲームの醍醐味であるわけですが、もしもジョーカーの無い状態でババ抜きをしようものなら、ただ黙々と同じ数字のカードを整理整頓するだけ。ゲームではなく作業。手を使って良いサッカー、足を使って良いハンドボール、カバディと言わなくて良いカバディも、面白くは無さそうです。
ベートーヴェン『交響曲第3番』第1楽章。譜例では3小節目からドッペルドミナントの1転が6回も、ティンパニまで加わってスフォルツァンドで強調される。しかし、抜けた先のI度2転が低弦の弱奏、その次の小節は増六の和音に向かって、また別の展開が始まる。
本来、このドッペルドミナントの連続が予期しているはずのものは解決で、仮に譜例7小節目の箇所にI度2転「ファ・シ♭・レ」、8小節目に属七「ファ・ラ・ド・ミ♭」の強奏を置けば、すんなりI度「シ♭・レ・ファ」に戻れます。戻れるなら戻れば良いのに、ベートーヴェンは戻らない。ちゃんとしたI度を聴くためには16小節先まで待たねばならない。
そっちに行くと思わせておいて、そっちには行かない。しつけに失敗した犬の散歩のように、わたしたちは振り回されます。終わらない作家、ベートーヴェンたる所以です。
すべてが順当に進んでしまったら作品なんて面白くありません。貞操観念がしっかりしていて誘惑もせず殺されもしないカルメン、自分の養女の生んだ赤子を川に投げ捨てないコステルニチカ、核戦争も起こらず文明も秩序も失われなかった199X年、ウソのようにボロ勝ちする愛和学院高校戦。良かったね、で終わります。現実社会は平穏無事が良いに決まってますが、そもそも事件が起こらなかったら、片平なぎさと船越栄一郎は東尋坊で何をすれば良いのか。観光でしょうか。
作品というものに触れるとき、わたしたちは振り回されたいのです。
いくらなんでも不幸自慢ネタ一本で死後200年生き残っていけるほど、この業界は甘くない。その甘くない業界で、今なお彼がクラシック音楽の代表選手であれるのは、こうした部分の聴覚の圧倒的な面白さにこそあります。そっちには行かないよという顔をしながら物凄い勢いでそっちに走って行く『運命』第4楽章へのつなぎ。どこかに行きたい様子でうずうずしながら同じところをくるくる回る『田園』第1楽章「ソラシ♭、シ、ド」の繰り返し。入り口をそもそも間違える第1番の出だし。ちょっとすみませんよと縁日の参道をトルコの軍楽隊が横切っていく第九。聴き手をぶんぶん振り回し惑わせ続ける突出した性格の悪さ。こういうものは書けと言われて書けるものではない。超絶の技師の仕事と言うべきものです。
もうひとり超絶の技師の仕事を見ましょう。モーツァルト『交響曲第40番』第1楽章冒頭。チェロ・バスを見ると「↓ソ、↑ソ」と1、3小節目に頭がありますが、ヴァイオリンのメロディ「ミ♭レ」は、ふつうに考えればアウフタクトです。2、4小節目に頭がある。つまり、すべて1小節ズレ続けながら進んでいる。のに、いつの間にやら合流して美しく調和するのが不思議でならない。この「不思議でならない」という気持ちを抱けるようになるまでが、ひとまずの、演奏家にとっての理論のお勉強ではないかと思います。
ババ抜きも、ルールを知っているというだけではゲームにならない。オトナゲなく相手にババを押し付けることにムキになって、ようやく楽しいものです。音楽のルールはババ抜きよりかはもう少し複雑でしょうが、意味するところは同じです。聴き手の方々も、やはり少しはルールを知っているほうが、いっそう楽しめるでしょう。なにも三巻本の和声の教科書を解けと言っているのではありません。サッカーのファンならオフサイドくらい自然と知るもの、その程度の話です。
とある曲が作曲された頃の作家の恋愛事情、台所事情を熟知している方もいて、その勉強熱心さに驚くこともありますが、作品理解のヒントになるのかは少々疑問です。僕は仕事を同じくしているせいもあり、散々なことになっている恋愛事情も台所事情もあまり人に探られたくはないので、自分がしてほしくないことは人にもするな、の道理で、歴史上の人であっても考えないことにしています。
それでも(これは自慢話ですが)、知らない作曲家の知らない曲でも、その作家の年代や出身地、師弟関係を言い当てたこともあるので、楽譜には文字で残された以上のことがすべて書いてあると僕は思っています。それは情況証拠や推測、憶測よりも、はるかに確かなものです。
なお、個人が習得している和声能力に結果が左右されてしまう傾向のあることと、すべてを順当な関連のなかに結びつけてしまう傾向が強いので、シェンカー分析は取り扱い要注意と僕は考えます。
先生が生徒に和声を教える際、種々の禁則を前にぶうぶうと文句を垂れている様子が伺えるなら、「ババのないババ抜きは面白いと思う?」と言い添えてあげてみてください。演奏の学生に向けた集団授業ならなおさら、そのような一言を惜しんではいけないでしょう。実際舞台に立ってその力学を行使しなければならないのは、他ならぬ彼らであるわけですから。
きわめてシンプルなゲームですけど、最後の手持ちのババをいかに相手に押し付けるか、というところに、駆け引きの楽しさが生まれます。一度でもこれで遊んだことのある人なら、わざわざ一枚「これを取れ」と出っ張らせた経験だってあるでしょう。ババのほうを出っ張らせる人もいるし、ババじゃないほうを出っ張らせる人もいる。ババじゃないほうを取られそうになったとき、あえて嬉しそうに口をほころばせ、相手を惑わせる性格の悪い人もいます。
たった一枚ジョーカーを忍ばせておくだけで種々の人間模様が観察できる。それが、こういったゲームの醍醐味であるわけですが、もしもジョーカーの無い状態でババ抜きをしようものなら、ただ黙々と同じ数字のカードを整理整頓するだけ。ゲームではなく作業。手を使って良いサッカー、足を使って良いハンドボール、カバディと言わなくて良いカバディも、面白くは無さそうです。
「ああいうのって、多少は感覚的なものも関係あるんですか?」
と、以前僕に「和声を教えてほしい」と相談してきた若者から質問を受けました。「ああいうの」とは和声や対位法やその類のものを指していますが、この問いが生まれるということは、もしかすると、彼は理論を何か別のものと誤解しているかもしれない。僕は彼にありがたいご高説を垂れたに違いないんですが、なにしろけっこう飲んでいたので、さて、何と説明したのやら。
ベートーヴェン『交響曲第3番』第1楽章。譜例では3小節目からドッペルドミナントの1転が6回も、ティンパニまで加わってスフォルツァンドで強調される。しかし、抜けた先のI度2転が低弦の弱奏、その次の小節は増六の和音に向かって、また別の展開が始まる。
本来、このドッペルドミナントの連続が予期しているはずのものは解決で、仮に譜例7小節目の箇所にI度2転「ファ・シ♭・レ」、8小節目に属七「ファ・ラ・ド・ミ♭」の強奏を置けば、すんなりI度「シ♭・レ・ファ」に戻れます。戻れるなら戻れば良いのに、ベートーヴェンは戻らない。ちゃんとしたI度を聴くためには16小節先まで待たねばならない。
そっちに行くと思わせておいて、そっちには行かない。しつけに失敗した犬の散歩のように、わたしたちは振り回されます。終わらない作家、ベートーヴェンたる所以です。
すべてが順当に進んでしまったら作品なんて面白くありません。貞操観念がしっかりしていて誘惑もせず殺されもしないカルメン、自分の養女の生んだ赤子を川に投げ捨てないコステルニチカ、核戦争も起こらず文明も秩序も失われなかった199X年、ウソのようにボロ勝ちする愛和学院高校戦。良かったね、で終わります。現実社会は平穏無事が良いに決まってますが、そもそも事件が起こらなかったら、片平なぎさと船越栄一郎は東尋坊で何をすれば良いのか。観光でしょうか。
作品というものに触れるとき、わたしたちは振り回されたいのです。
いくらなんでも不幸自慢ネタ一本で死後200年生き残っていけるほど、この業界は甘くない。その甘くない業界で、今なお彼がクラシック音楽の代表選手であれるのは、こうした部分の聴覚の圧倒的な面白さにこそあります。そっちには行かないよという顔をしながら物凄い勢いでそっちに走って行く『運命』第4楽章へのつなぎ。どこかに行きたい様子でうずうずしながら同じところをくるくる回る『田園』第1楽章「ソラシ♭、シ、ド」の繰り返し。入り口をそもそも間違える第1番の出だし。ちょっとすみませんよと縁日の参道をトルコの軍楽隊が横切っていく第九。聴き手をぶんぶん振り回し惑わせ続ける突出した性格の悪さ。こういうものは書けと言われて書けるものではない。超絶の技師の仕事と言うべきものです。
もうひとり超絶の技師の仕事を見ましょう。モーツァルト『交響曲第40番』第1楽章冒頭。チェロ・バスを見ると「↓ソ、↑ソ」と1、3小節目に頭がありますが、ヴァイオリンのメロディ「ミ♭レ」は、ふつうに考えればアウフタクトです。2、4小節目に頭がある。つまり、すべて1小節ズレ続けながら進んでいる。のに、いつの間にやら合流して美しく調和するのが不思議でならない。この「不思議でならない」という気持ちを抱けるようになるまでが、ひとまずの、演奏家にとっての理論のお勉強ではないかと思います。
「われわれ観客・読者は、作家と逆の操作を行う必要があります。作家の駆使する技法という回線を逆に辿って彼の魂の底に降り立つわけです。このとき、われわれは観客・読者としての実力を問われます」(井上ひさし)
ババ抜きも、ルールを知っているというだけではゲームにならない。オトナゲなく相手にババを押し付けることにムキになって、ようやく楽しいものです。音楽のルールはババ抜きよりかはもう少し複雑でしょうが、意味するところは同じです。聴き手の方々も、やはり少しはルールを知っているほうが、いっそう楽しめるでしょう。なにも三巻本の和声の教科書を解けと言っているのではありません。サッカーのファンならオフサイドくらい自然と知るもの、その程度の話です。
とある曲が作曲された頃の作家の恋愛事情、台所事情を熟知している方もいて、その勉強熱心さに驚くこともありますが、作品理解のヒントになるのかは少々疑問です。僕は仕事を同じくしているせいもあり、散々なことになっている恋愛事情も台所事情もあまり人に探られたくはないので、自分がしてほしくないことは人にもするな、の道理で、歴史上の人であっても考えないことにしています。
それでも(これは自慢話ですが)、知らない作曲家の知らない曲でも、その作家の年代や出身地、師弟関係を言い当てたこともあるので、楽譜には文字で残された以上のことがすべて書いてあると僕は思っています。それは情況証拠や推測、憶測よりも、はるかに確かなものです。
なお、個人が習得している和声能力に結果が左右されてしまう傾向のあることと、すべてを順当な関連のなかに結びつけてしまう傾向が強いので、シェンカー分析は取り扱い要注意と僕は考えます。
先生が生徒に和声を教える際、種々の禁則を前にぶうぶうと文句を垂れている様子が伺えるなら、「ババのないババ抜きは面白いと思う?」と言い添えてあげてみてください。演奏の学生に向けた集団授業ならなおさら、そのような一言を惜しんではいけないでしょう。実際舞台に立ってその力学を行使しなければならないのは、他ならぬ彼らであるわけですから。