2017年2月27日月曜日

音楽の冗談、の常談(4)III. Adagio cantabile

 不思議な楽章である。第二楽章までを観察してきたわたしたちの耳からすると、形式的なアンバランス感をこの楽章から感じ取ることはないだろう。緩徐楽章としてちょうど良い規模を持っているし、素材も全て揃っていて、過不足ない。たしかに、ヴァイオリンによるカデンツァはおかしなものであることがただちに理解できるし、そもそも余計な自己主張に見えなくはないにしても、ところどころには普段の彼を窺うことすらできる。しかし、この何ともいえない違和感の正体は何なのだろうか。


 この楽章を聴いて真っ先に耳につくのは一小節目、第一ヴァイオリンの旋律にある「ファ♯」だろう。「ミ」から「ソ」に至る経過音の「ファ」に間違って付けられてしまった臨時記号のせいで「『ド』を主音にした『ファ』の旋法(音階の第四音が半音上がった旋法)」の旋律にも聞こえてしまう。しかし、これを直すのはたやすい。臨時記号を外せば良いだけだ。またも「筆者による訂正案」なるものを示しておいたので参照にされたい。ちなみに、二拍目のすぐにある「ファ♯」は刺繍音として正しいものであるから、このシャープを外してはいけない。

 ラモーが『和声論』で道すじを示して以来、転調は、古典派・ロマン派音楽にとって目下の関心事となった。好きなときに好きな方向から空間が描けるということの自由さは、IV度調の属七から始まるベートーヴェンの『交響曲第一番』のように、別の調から曲を始めるということさえ可能にした。
 ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を人々は調性崩壊の兆しと捉えたが、あの和音は各声部の持つ機能に強く支えられているため、成立している。対位法の特性も上手く利用した調性音楽の成果だ。一方、『冗談』の第三楽章は、最初から崩壊そのものが目的である。
 別の調から始めても三和音を用いなくても崩れない調性システムの柔軟さを、どのようにして崩すのか。24小節目からの中間部を取り上げるが、モーツァルトのややこしい書き方を説明しなければならないので、どうしてもややこしい話になる。のちほどわかりやすい言葉でまとめるので、次の段落は流し読んで構わない。

 24~25小節目。この楽章の冒頭をV度調で再現している。24小節目二拍目に「レ、ド♯、ミ、レ」と現れる部分の「ド♯」は刺繍音であるから良いにしても、続いて現れる二拍目裏先頭の「ド♯」は、旋律だけ見れば「ド」のはずだ。しかし下三声を見るとI度~II度七~V度調の属七~V度という、一見すると不思議ではない連結をしている。「ド♯」があるのも間違いとは言えない。であれば、「レ」に向かうはずだが、向かっていない。旋法的な旋律に下が合わせてしまっている。
 26~27小節目は、IV度調でこれを繰り返す。反復進行と解釈するのが良いのだろうが、「並行和音」ならぬ「並行転調」に聞こえなくもない。
 28小節目アウフタクトからVI度調に転調するが、二拍目には早くも減三和音、減七の和音が連続し、またもや転調してしまう。この部分は様々に和声進行が解釈できるが、近親調として関連付け考えるならIII度調として捉え、付加6のIV度~V度調属九~V度と連結していると考えられる。
 しかし29小節目冒頭「シ」に築かれた混じり気の無い長三和音は、あまりにもインパクトが大きい。同様の箇所である31、33小節目の冒頭を見る限り、あくまでV度と解釈できるが、この瞬間だけVII調の同主長調に転調しているようにも聴こえてしまう。この違和感の正体は、減和音が連続しているにも関わらず、そこに現れるべき半音階が充分に強調されていないことにあるだろう。
 さて、29小節目の冒頭をIII度調のV度として捉えるなら、第一転回形を経て、I度。バスに置かれた「ド♯」は冒頭の旋律「ミ、ファ♯、(ラ、)ソ」の動きを思い出させる。これはあくまでV度のなかにある経過音であるはずのものだが、ヴァイオリンの「ファ♯・ラ」とピタリと揃い、まったく別の和音に聞こえてしまう。
 その「ミ、ファ♯、(ラ、)ソ」の動きが、今度は経過音ではなく正真正銘の和声音として機能してしまっているのが次の30小節目。冒頭からI度~同主長調のIV度~属七と連結する。この同主長調のIV度はきわめて唐突に響くので、この小節がIII度調であることを証明する要素は、第一ヴァイオリンに経過的に現れる「ソ」しかない。
 31小節目。この冒頭はIII度調のI度ではなくVI度調の属七である。根音を同じくす和音だが、第二ヴァイオリンに置かれた「レ」の存在意義が大きい。33小節目の「ソ」も同様である。上三声は保続音上に属七~I度~V度~V度調属九~V度と連結し、V度の第一転回形をはさんで、32小節目はようやく安定したVI度調のI度~IV度~V度。しかし第二ヴァイオリンには、冒頭「ミ、ファ♯、(ラ、)ソ」を思わせる、上方変位された「ソ♯」「ファ♯」が確認できる。
 33小節目。これはII度調の同主長調であると考えるべきだろうか。31小節目直前にも現れていたものなのだが、33小節目直前に第一ヴァイオリンによって演奏されるトリルおよび装飾音の「シ」からが冒頭「ミ、ファ♯、(ラ、)ソ」の動きであり、その動きに正直になってしまったために全体もII度調の同主長調に移行したのである。
 ちなみに32~33小節目には第二ヴァイオリンとヴィオラとの間に対斜が生じているが、こんなものは、もはや全体から見れば取るに足りない禁則だ。属七~VI 度一転~V度一転~VI度~属七と連結し、34小節目はI度~IV度~I度二転~V度。
 35小節目は予想に反してII度調のI度。それをすぐさまI度調のII度と読み替え、属七一転~I度。すぐさまV 度調属七へと連結し、強引にカデンツを迎える。
 しかし、直後に始まる再現部はハ短調。この楽章の主調の同主短調であるが、早くも次の38小節目には、その平行調である変ホ長調のV度へと転調してしまう。

 金属は、一度折り曲げてから、もう一度逆の方向に曲げると、折れる。
 中間部で起きていることをかんたんに喩えると、そういう状態にある。
 有機物のように柔軟な調性システムをどのようにして硬直させるか。彼の場合はドミナントの機能を使う。「解決を充分におわせるドミナント」を置いてから、別の「解決を充分におわせるドミナント」を置く。相手の口にくわえさせたゴムを引っ張り、さらに引っ張る。延々と手を離さない。このとき、ゴムはもっとも硬直している。 
 30小節目の二拍目には「解決を充分におわせるドミナント」が全声部にわたって与えられている。バスはオクターヴで根音を強調しているし、上三声はトリルで解決を思わせるが、次に現れる和音はイ短調の属七である。
 32小節目の二拍目もまたV度が強調されて、第二ヴァイオリンによってしつこく示される導音が、いやでもイ短調を思わせるが、ニ短調の属七に向かう。「別の『解決を充分におわせるドミナント』」のために、冒頭「ミ、ファ♯、(ラ、)ソ」の動きを思わせる上方変位が利用されているのも確認できるだろう。

 ただそれでも、この箇所の聴覚の違和感を説明するには、まだ充分ではない。
 根音あるいは低音だけを抜き出しこれらの進行を見るなら、強調するに値するほど妙なことをしているとまでは言えない。よほど「本来の創作」のほうが大胆な進行をしているときさえある。もうひとつ別の理由を探さなければならない。
 その答えは、意外と単純である。
 24小節目から二小節単位の構造を持っていることは、旋律から聴き取れる。その構造に準じて現れる第一ヴァイオリン29小節目の「レミファソラーファー」はV度を思わせる動きだ。が、30小節目のトリル「ファーミファ(ソ)」もV度を思わせる動きになっている。トリルに合わせて31~32、33~34小節と見れば、これは和声がおおむね共通しているのがわかる。しかし「レミファソラーファー」の動きはそのままの形で31、33小節目にも現れ、解決を常ににおわせ続けている。

 新作を発表するときには付き物の「事故」なので、個人的な理由で僕には笑えない箇所ではあるが、みんなして「一小節ズレ続けている」のだ。
 解説としては前後してしまうが、これで1小節目もよく理解できることと思う。半拍の弱起であるはずなのに、誰もついてこない。2小節目の第一ヴァイオリンに振られたフォルテの指示が「ここが頭だ」と言わんばかりで(しかも、肝心のコンサートマスター氏も合奏につられているわけだが)、せつないものがある。この楽章を通し、音楽は半拍、一拍の弱起を行ったり来たりしていて、拍感の落ち着く気配はまったくない。

 しかし、ここでどうしても思い出していただきたい曲がある。Kv.550『交響曲第40番』の冒頭、バスの一小節目は頭拍だが、メロディ最初の「ミレ」はどう見てもアウフタクトだ。こちらは二小節目に頭拍がある。「一小節ズレ続けている」というのは、実は、彼の「本来の創作」にもある文脈なのである。
 このように、この楽章は、「本来の創作」で使う素材も置き方によっては崩れる、という立場で書かれている。どんなに立派な建築資材も沼に放り込んでは、沈むだけだ。が、「本来の創作」には泥が被らないように注意深く座標を眺め、「主音に向かわない導音」をご丁寧に書いていた頃の彼とは、まったく書き方が違うということにもう一度注目したい。「間違った和声」「粗野なリズム」に遊んだ彼は、どうやらすべて呑み込み、我が物としてしまったようなのだ。
 第二楽章では必要に応じて「本来の創作」を混ぜていたが、もはや混ぜるどころではなく、「本来の創作」を充分に悪用して冗談を書いている。

 またも、彼の考えは変わった。
 逆に、これだけややこしい書き方をするこの楽章の彼が最初からいたなら、どうしてあの第一楽章を着想できたのか。やはり「間違った和声」の扱いに慣れてきたと思うほうが自然だろう。第三楽章に書かれた属七の第7音は、すべてきちんと下がっている。それでも「成立していない」という状態を成立させることができている。
 カデンツァの最後に現れる全音音階になど、もう説明は要らないだろう。高い音域が上手く押さえられず間違ってニ長調に行ってしまいました。という、軽い冗談だ。そのあとトリルを間違えるのも、軽いご愛嬌だ。(つづく)