この楽章の楽譜を手にすると、優雅な舞曲であるはずのメヌエットに「マエストーソ(堂々と)」などという場違いな指示がなされているのが、目に入る。
第一楽章で彼が示したような冗談は、もはや主題のなかには見出せなくなっており、冒頭の四小節には理論的な間違いも見当たらない。軽やかに演奏すればメヌエットに聴こえるだろう。ただ、彼の指示どおりに、演奏者が堂々と演奏すればするほど、メヌエットの精神からは加速度的に外れ、救いようのない「狩」の音楽になっていく。そうすればするほど5小節目からのホルンがメヌエットの領域を超える。メヌエットにホルン的なモチーフが登場することは珍しくないが、あんまりだ。
必要に応じて「本来の創作」も混じるようになる。彼はもう、まったく別の領域に踏み込んでいるのである。
第一楽章で彼が示したような冗談は、もはや主題のなかには見出せなくなっており、冒頭の四小節には理論的な間違いも見当たらない。軽やかに演奏すればメヌエットに聴こえるだろう。ただ、彼の指示どおりに、演奏者が堂々と演奏すればするほど、メヌエットの精神からは加速度的に外れ、救いようのない「狩」の音楽になっていく。そうすればするほど5小節目からのホルンがメヌエットの領域を超える。メヌエットにホルン的なモチーフが登場することは珍しくないが、あんまりだ。
必要に応じて「本来の創作」も混じるようになる。彼はもう、まったく別の領域に踏み込んでいるのである。
まず注目したいのは9小節目アウフタクトからの4小節。第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリン、ヴィオラとバスが、それぞれ3度の関係で動きを共有する。これは第一楽章の展開部ではじめて姿を現した「連続する3度を置いただけのもの」だ。しかも、第一楽章よりいっそう無意味に順次進行を連続させている。どうやら彼も、間違った音符に慣れてきたようだ。そのように書かれているものであるから、当然、和声分析を受け付けない。
この9小節目アウフタクト~12小節目の応用が、さっそく17小節目アウフタクトから現れる。今日のわたしたちでもすぐさま「あっ」と気付く、わかりやすい冗談だ。
これも二本のホルン、ヴァイオリン、ヴィオラとバスのそれぞれで「連続する3度を置いただけのもの」を弾く。ただし、ホルンには間違った臨時記号がつけられている。あまり意味はないかもしれないが、無理やりこじつけて考えると、第一ホルンは1小節ごとにヘ短調、ホ短調、ヘ短調と変わり、同様に第二ホルンはヘ長調、変ホ長調、ロ短調と変わる(と推測する)。当時のホルンであればストップ音を用いなければ鳴らない音だ。現代のホルンなら難なく鳴るし、あえてストップ音を使うこともできる。どちらを選ぶかは考えにもよるだろう。が、そもそもこの臨時記号自体まったくいらないものなので、どちら音色を選択するにせよ、ここの冗談は不動である。参考までに、下に「筆者による訂正案」なるものも示しておいた。
弦だけを取り上げても、これは和声的に意味をなしていない。19小節目の最後には第二ヴァイオリンとバスに「シ♭」が置かれ、旋法的に聞こえる。ここに強いて「シ」を置くなら、フラットのついた「シ」ではなく、ドッペルドミナント「ソ・シ・レ」の「シ」であるべきだ。
この情けないエピソードを経て主題は再現され、5小節目のホルンに見られたリズムが全合奏に行き渡り、メヌエットという舞曲の目的は完全に消滅する。
トリオは定形通り変ロ長調に調を移すが、強拍から始まっているのが少々気になる。弱起のメヌエットに対し強拍から始まるトリオとは珍しい。だが、それよりも、このトリオがメヌエット本体より十小節あまり長いほうが気にかかる。必然性があってそれだけの長さが確保されているわけでもなく、素材にふさわしい長さよりも冗長な表現が採られているため、長引いてしまっていると言ったほうがいっそう正しい。
たとえば、40~43小節目。I度から属七の第二転回形、属七の基本形をはさんでI度に戻るという基本的な和声進行をするが、その上に乗る第一ヴァイオリンの旋律は、旋律というよりただの音階練習と言ったほうが良いものだ。音楽的な面白みを欠いている。43小節目で急に力むのも妙だ。しかも、この四小節は何の変化もなくそのままの形で二回繰り返されるという冗長さである。
48小節目からは、第二ヴァイオリンとヴィオラで演奏される「連続する3度を置いただけのもの」を、第一ヴァイオリンが分解してなぞっただけのものである。
このあたりから、最初から足りない素材で作れば最終的に足りないものが出来上がる、ということに、彼はどうやら気付き始めたようだ。ここに至るまで、「間違った和声」を置くにしても、三和音を充足させることを彼は忘れなかった。それがここにきて三和音から「二和音」へと単位が変わる。この4小節間も、やはり繰り返されるが、今度はホルンが加わることで三和音となり、この「二和音」の進行に間違いはなかったことを証明する。わざわざご丁寧に「主音に向かわない導音」を書いていた第一楽章の頃からは考えられない書き方だ。
またしても、わたしたちは「作品の途中で考え方を変えるモーツァルト」の姿を見ている。座標を気にかけ、「本来の創作」とは違うことをしようと工夫を重ねていた彼は、もうどこにもいない。62小節目から70小節目にかけてはひどく抽象的な音楽で、もはやなにがどの程度の冗談なのかが、さっぱりわからない。
彼は「足りない素材」の使い方に遊び始めてしまった。
そう思えば、すべて合点がいく。わずかな音でも音楽が成立することをここで実験したおかげで最晩年のアクロバティックな転調が生み出されていくことになる。というのは、深読みのしすぎだろうが、次の楽章で取り上げられる冗談のひとつは「転調」である。泥沼から泥沼へと、延々と解決しない進行に彼は遊ぶのだ。(つづく)