2017年1月16日月曜日

演奏家のための和声のはなし(1)

 フォン・ユクスキュルが著書『生物から見た世界』(日高敏隆、羽田節子・訳 岩波文庫2005年)に「環世界」という語が出てくる。生物が体験しているのは環境そのものではなく、生物自身が行為と知覚とによって自ら作り上げた「環世界」に依っていると。マダニの例では、酪酸の匂い、動物の皮膚の温度と感触、それに触発されて行われる単純な行動がマダニにとっての環世界のすべてであって、それ以外の環境の膨大な情報や行動の可能性は存在しないも同然であると。
 ヘルマン・ヘッセ『デミアン』(実吉捷郎・訳 岩波文庫1959年)にも蛾の話が出てくる。ある種類の蛾は雌の個体数が極端に少ない。その地域に存在するたった一匹の雌を目指して、何キロと離れた距離を何時間もかけて何匹もの雄が飛んでくる。そのような気の遠くなるような行いが、彼らの生態系の当然のこととして、ある。
 
 型枠大工の父と按摩の母の息子である僕にとって、これらはどこか他人事としては片付けられない響きを持っている。音楽家など家系にひとりもいない。クラシックに結びつく経験を幼年時代に探し求めることができない。にも関わらず、僕は、中学生に上る頃にはストラヴィンスキーチャールズ・アイヴズを探し当てていて、今は音楽家になっている。

 父は、都はるみが一度引退した際に全集を買ったが、それを通して聴くことはなかった。母の趣味はいくらかモダンだった。サンタナのレコードを誇らしげに持っていた。だが、それに熱狂しているという風でもなかった。僕がはじめて買い与えられたレコードは岩崎宏美の『聖母たちのララバイ』と、イモ欽トリオ。両親は音楽に関し自由にさせてくれた。欲しいというレコードやカセットテープを買い与えてくれたが、その代わり積極的に何かをさせることもなかった。そもそも、息子が持った興味に対し、彼らは何の知識も持っていなかったためである。僕だって、世の中には作曲を専門に勉強できる音楽大学なる場所があることを、受験の前まで知らなかったのだ。


 僕の経験は、おそらく例外的なもので、誰かにとって何かの参考になるような話にはなりそうもない。「人はなるようになる」もしくは「人はなるようにしかならない」という話にしかなりそうにない。
 ただ、若かりし頃の僕が、曲を書くという行いに対し何の疑問も持っていなかったのは、確かだ。

 たまに「どうすれば作曲が出来るようになるのでしょうか」と尋ねられることがある。これにはいつも返答に困る。というのも、僕は「どうすれば」という疑問を持つ前に書いていたからだ。ハ音記号の存在を知らず、加線を下に3本も4本も引きながらヴィオラのパートを埋め、40分ほどのト短調の交響曲を書いていた。それはある頃に厳重に焼却処分したが、ゆうべの食事をたやすく忘れる歳の頃となったのに、今なおこの主題を忘れることができない。たぶん死ぬまで忘れないのだろう。17歳の頃に書いたピアノ曲は自分でも時折り弾く。ここに載せた譜例は後に浄書したものだが、当時の手描きの原譜のままだ。このような記譜の方法を、おそらくはどこかで盗み見たのだろうが、今はそれを思い出すことができない。

 その人にとって必要となるものは、放っておいても、必ずその人の目にとまるようにできている。そう漠然と思ってはいたが、マダニや蛾の話を読む限り、そういうものと思って間違いないらしい。我々も生物であるから、我々自身の「環世界」と無縁ではいられない。

 ときに、作曲家にとって必要な音楽理論と、演奏家にとって必要な音楽理論とはどれくらい違うものなのだろうか、という話題で、僕にとって数少ない作曲の友のひとりと話をしたことがある。これに対し、当時の僕は明確な答えを出すことができなかった。今から8年前の話だ。今の僕も、ちゃんとした答えを持っているわけではない。
 ただ、ピアノの学生ならショパンやリスト、木管の学生ならプーランクやヒンデミットを練習しているかたわらで、ラモー伝来の和声法を「書いて」訓練するという実習が、どれほど彼らの実際の音楽生活と耳のなかで結び付けられるものなのか、という疑問を、僕は長年持っている。モーツァルトやブラームスを練習する弦楽の学生にとっても、機能和声法だけでは役不足である。作曲家たちはラモーの「その先」を野心的にも試みているからだ。
 

 作曲科の学生だった僕も、とある頼まれごとでベートーヴェンの第4チェロ・ソナタの譜めくりをしたとき、自分の理論の知識がまったく役に立たないことを深く思った。第2楽章後半部分。主調C durのV度調「ソ」で終止した後、ミ♭―ドと3度ずつ下降していき、さらに3度下がった「ラ♭」の調から音楽がまた動き始める。それにしても、助手席で寝落ちした女のようなこのチェロの空虚5度はいったい何であろうか。さっぱり意味がわからない。

 この「さっぱり意味がわからない」が、まさにこの曲の正解そのものであると、今の僕なら思うこともできるのだが、当時の僕にとっては、そういうわけにいかない。この曲の、この部分のこの謎のせいで、僕は「現代音楽作曲家」の道をむざむざと捨て、20代の10年間を古典の技法を習得する作業に費やす結果となってしまった。音楽という現象を観察するに、よりいっそう強い引力が、近現代よりも古典から訪れたのである。
 
 はしたない自分語りはさておくこととしよう。
 作曲家と演奏家とで必要な音楽理論はどれくらい違うものか、という問いには答えられなくても、「演奏家に音楽理論は必要か」の問いには、言わずもがな、と即座に答えることができる。幸いにも僕は演奏家の友を多く持っている。彼らの恩に報いるべく、作曲や編曲だけでなく、僕自身が学んだいくつかの事柄をここに書いてみようと思う。理論家が理論を語るときに用いる言葉を使うのではなく、ほんとうに必要とする人に届くよう、やさしい言葉によって。(続く)