2017年1月23日月曜日

演奏家のための和声のはなし(9)楽器

 作曲家の見ている風景は、次の小節が常に白い。
 演奏家はいつも完成品を見ている。だから、次の小節が常に「ない」という状況を想像するのは難しいかもしれないけれども、そうは言っても無いものは無いのだ。自分が書くまでそれは存在しない。次の小節が無いという点に関し、すべて作曲家は平等である。バッハが見ている白紙と、ガーシュインが見ている白紙と、僕の見ている白紙は、まったく同じものである。

 そこから先に何を書くのかが重大な問題なのは百も承知だが、案外、この「当たり前」は見過ごされがちだ。
 よって、分析者の陥りがちな罠が2つある。
 ひとつは、目先の分析にとらわれること。その場の事象に目がとらわれがちになること。ひとつひとつの文字を取り出し、dは子音、oは母音、gは子音、と考えてしまうこと。作家はそこにdogという単語を書いている。ときにはそれを逆行形にしてgodとも書いている。作家としてはそちらの遊びを楽しんで欲しいわけだが、それには気づくことなく、また新たに、gは子音、oは母音、とTSDの記号を振る。そう足元ばかり見て歩いていては、かえって道に迷ってしまう。
 もうひとつは、作品の出来上がりに感心しすぎてしまうこと。
 ここにもモチーフがある、あそこもモチーフがある、伏線がある、無駄がない、と、注意深く観察すれば作品のあらゆる部分に主題の面影を見る。それもそのはずで、よほどの例外もない限りクラシックの作家は最初のページを最初に書く。それが材料なのだから、それを使う。その材料で最終的に何を作ったか、が、クラシックの作家の興味だ。モチーフは『ウォーリーをさがせ!』のウォーリーではないし、なぜウォーリーはウォーリーであるのか、という哲学的な疑問を持つのは悪いことではないかもしれないが、少し後回しにしたい。

 上の円空仏は一本の丸太から作られている。「3体の顔を合わせると1本の丸太になる」のではない。重箱の隅をほじくるようなことを言うけれど、この順序を間違えると、せっかくの仏様の表情や造形を丸切り無視して、元々の丸太そのものに感動してしまうことになる。丸太を育んだ自然を褒め称えるのは素晴らしいことかもしれないが、作家としては少々複雑な心持ちにもなる。


 クラシックの作家にとって大前提となるものには、楽器編成がある。「和声のはなし」と題しているのに恐縮だが、和声なんかより楽器の現実のほうが作家にとってはよほど大きな問題だ。
 右はチャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』第1楽章から。譜例では5小節目の3拍目。「ミ」と「ミ♭」が直接ぶつかる箇所がある。ピアノと第1ヴァイオリンの間で半音の受け渡しが続き、最後に現れたものをそのまま木管が受け継ぐ。4小節目は「ファ、ミ、ファ」と動くから何とか説明がつくものの、いくらなんでも大胆すぎる。
 もちろん、チャイコフスキーにしたって、例えばピアノのソロ曲ではこのようなことをしない。現実の空間は机上の和声に優越することを熟知しているからこその書き方で、『くるみ割り人形』など彼の他の曲にもたくさんこういう箇所があるのだが、これはこういうものだとすでに浸透しているので、いまや誰も疑問に思わない。彼の例よりよほど穏健なオーケストレーションで長七和音を書いても、根音と第七音との関係を「間違ってませんか?」と奏者に尋ねられたりして、僕としては非常に不公平を感じることがある。のはさておき、このような例に何も感じない耳にはならないように、自分の耳が「有名曲慣れ」しすぎないように、少し省みたい。「ミ」も「ミ♭」も正しい音程で歌うために、理論という名の手鏡をポケットに忍ばせたい。

 僕が(中退していなければ、まだ)学生だった頃、大学に来たのはトリスタン・ミュライユだったと思う。スペクトルという話題だったが、様々な楽器で奏した同じ音のアタックとリリースの両端を切り落とし、一つに繋げた音源を聴いたのだけは深く記憶に残っている。安定した持続部分では、楽器の音色の差がまったくない。楽器の個性を決定づけているものは、弦楽器であれば弓と弦とが摩擦する瞬間のノイズ、管楽器であればタンギングで生じるノイズ、そこにある、という話だ。今でも覚えているくらいなので、この教訓は役に立っている。
 ピアノの最低音域は第2倍音以上が強く鳴っており、基音そのものはほとんど鳴っていない、という話も役に立っている。その第2倍音であるオクターヴ上の鍵盤とは倍音の成分が異なるから個性が違うのであると。こうした楽器の現実が可視化できる時代となった。ゆえに、昔の作家は本当に「よく聴いている」ということもまた、つくづく思うようになった。
 
 一点ハ音、いわゆる真ん中の「ド」をフルートで吹く場合、ファゴットで吹く場合、ヴァイオリンで弾く場合、チェロで弾く場合、トランペットで吹く場合、チューバで吹く場合、マリンバで叩く場合、コントラバスの弓でヴィブラフォンを撫でる場合、それらは作曲家のなかですべて違う価値を持っている。生じる倍音の成分が違う。もう少しやわらかい表現で言えば、響きが違う。クラシックの作家が扱うのはその響きであって、メロディを書いてから和声を当てはめたピアノの曲をオーケストラの高い音が出る楽器から順にソ、ミ、ドと割り振るような書き方は、しない。
 
 声部の分離、独立、豊かさ。線や空間ということを何度か書いてきたが、世の中の建築物がすべて黒一色ということはない。赤い屋根があったり、木製のドアがあったり、薄いピンクの壁紙に白いソファ、ハートの模様のクッションと一匹の猫がいたりする。窓の外には小さな緑の庭。外は気持ちよく晴れている。オーケストレーションひとつで、同じ間取りの部屋を、濃い紫色の壁紙をブラックライトが照らす厚いカーテンで閉め切った空間にすることもできる。中にはそうした空間のほうが落ち着くという人もいるだろう。シューベルトなど長三和音を暗く響かせることに関しては天才的だ。部屋を訪れる人の目に真っ先に止まるのは、2LDKの間取りよりも、そうした色味に違いない。
 
「作曲家の意図」という言葉が、ときおり問題になる。
 作曲家が在世の頃の演奏習慣、形態、楽器、いろいろと研究も進み、その恩恵は非常に大きい。ただ、それらがすべて忠実に再現されていても、対位法の喜びが感じられないバッハになってしまったら台無しだ。グールドなどは現代の楽器で好き勝手をしたけれども、声部は分離している。4声のフーガを4人分の耳で弾いている。僕はむしろ彼のシェーンベルクやヒンデミットのほうが好きだけれども、もっとも肝心な意図を外さなければ、演奏は成立するというひとつの例だ。

 自作自演を何度もしているので、僕はこれを言う資格があると思うけれど、作曲者本人といえども、作曲している自分と演奏している自分は別人だ。家を設計した人がその家に棲み、生活をはじめれば、自然と目線も変わる。冬が寒ければリビングにこたつが欲しい、ついでにみかんも欲しい、などと思うようにもなる。設計の段階ではみかんのことまで考えない。
 作曲してから10年20年と経つ作品も増えてきた。作曲当時より今の方が「作曲者の意図」に忠実に演奏できる。少しは腕前も進歩したということはあるが、たとえば一匹の猫を飼い、その家で楽しく暮らせるようになったような感じだと言えば、伝わるだろうか。

 ブラームスは演奏者に向かって「とにかく美しく頼むよ」と言ったという逸話がある。自分の作った空間で、どうか伸び伸びと過ごして欲しいというのが、すべて作曲家の共通した「作曲家の意図」であり、願いではないか。もっとも、あまり乱暴に釘穴を開けられたりすれば、小言のひとつも言いたくなるものではあるのだが。(続く)