テナガザルは歌を歌うという。
ゴリラ、チンパンジー、オランウータン、ボノボとヒトとが含まれるヒト上科のなかで、テナガザルはもっとも古くに分岐した系統だという。その彼らが、雄と雌とが交互に複雑なフレーズを即興的にやりとりしつつ、彼らの社会を円滑に進めている。野生の個体も動物園で生まれた個体も等しく歌を習得するようだ。音程とリズムとが彼らの「言葉」であるわけだが、思えば人間の言葉も、それは音程とリズムとに他ならない。
長い歴史のなかで人は言葉という道具を洗練させてきた。そもそもはテナガザルのように、その社会におけるその時のコミュニケーションのための道具だったのだろうが、これが文字によって記録されるようになると、今度は文字からも言葉を考えられるようになった。複雑な思考に耐えられるようになった。実際には無かった妄想の世界まで想像して書き残すようになった。「見てきたような嘘をつく」と言うが、作家はそれを生業とする。今日もなお、我々はマンガやアニメやゲームによって非現実を楽しむ。人の社会には非現実の必要が本能的なものとしてある。我々は非現実を歌う。しばしば、それらの非現実に現実が追いつくこともある。
メソポタミアには紀元前の例があるというが、もう少し今日的な意味での楽譜が考案されたのは9世紀ごろ。中心音に基準の線が引かれるようになり、それが4本、5本と増え、羊皮紙に手書きしていたものが産業革命によってパルプ紙に活版印刷されるようになり、印刷の都合も相まって音符の姿も変わり、大量生産の結果、安価になった。そうした状況が14世紀には整った。
日給にも相当する動物の皮を捨てるわけにはいかないが、紙なら気軽にクシャクシャと丸められる。人は手にする道具次第で発想が変わってしまうものだ。そうしてバロック時代の200年、古典派・ロマン派の200年が始まっていく。楽譜が記録のためのメディアから思考するためのメディアになるに従って、紙の上で音楽を考えられるようになり、音楽理論が高度な飛躍を遂げる。音楽理論は音楽形式だけでなく楽器の発達にも作用した。それは17世紀にひとまずの完成を見る。
今日の我々もまた、このような歴史を確実に繰り返していると言えそうだ。この100年足らずで録音物そのものを手軽に編集できるようになった。この10年足らずで人間ではない存在に歌を歌わせることもできるようになった。記録のためのツールが思考のためのツールへと変化していく、その真っ最中を生きている。
今日の我々もまた、このような歴史を確実に繰り返していると言えそうだ。この100年足らずで録音物そのものを手軽に編集できるようになった。この10年足らずで人間ではない存在に歌を歌わせることもできるようになった。記録のためのツールが思考のためのツールへと変化していく、その真っ最中を生きている。
さて、ロベルト・シューマンの名曲『トロイメライ』冒頭の4小節を譜例に示したが、今日の我々はこれを非常に自然なものとして、当然のものとして聴いている。主和音「ファ・ラ・ド」から下属和音「シ♭・レ・ファ」に移り、「ド」の保続音上で豊かな変化を起こす3小節目を経てから属和音「ド・ミ・ソ」、そうしてまた「ファ・ラ・ド」に戻る。興味深い拍節であるし、ピアノというよりホルンの書き方を思わせもする記譜であるが、和声進行そのものはへ長調のI度-IV度-V度-I度、トニック(T)〜サブドミナント(S)〜ドミナント(D)〜トニック(T)という「基礎的」な連結だ。「基礎的」と鉤括弧でくくったが、TSDの文法は古代の頃から基礎的だったわけではない。これらの機能は、ひとつの時代にひとつの発想の飛躍があったからこそ今日に「基礎的」なものとして、あり得る。
柴田南雄は『音楽史と音楽論』(岩波現代文庫 2014年)で、機能和声法の成立を1430年代とし、造形芸術の分野で同年代に確立した遠近法に対応したものであると説明している。遠近法の作画は、作者の目線から近い線、遠い線を描くことによって画面のなかに三次元の空間を生成する。手前側を描く線は強くなり、奥側を描く線は弱くなる。中世のチマブーエとルネサンス期のラファエロをここに並べてみたが、絵画と音楽を単純に比較することはできないけれども、やはり、似たようなことが起きている。
柴田南雄は『音楽史と音楽論』(岩波現代文庫 2014年)で、機能和声法の成立を1430年代とし、造形芸術の分野で同年代に確立した遠近法に対応したものであると説明している。遠近法の作画は、作者の目線から近い線、遠い線を描くことによって画面のなかに三次元の空間を生成する。手前側を描く線は強くなり、奥側を描く線は弱くなる。中世のチマブーエとルネサンス期のラファエロをここに並べてみたが、絵画と音楽を単純に比較することはできないけれども、やはり、似たようなことが起きている。
基としていた拍子が3から2に替わり、ドリア、フリギアのような教会旋法の厳格な運用が次第に弱まる。ドリア調の場合、中心音「レ」を説明する音は、すぐ上下にある「ド」や「ミ」だった。それが完全5度に替わる。遠近法に即せば、主音の手前側を上の完全5度、奥側を下の完全5度で囲って、主音が主音であることを説明するようになる。ドミナントは「属和音」などと訳されているが、本来はラテン語「Dominus(主)」を語源としていて、主要な、目立つ、支配的な、という意味を持つことに注意したい。
自然倍音列を観察すれば、第2倍音と第3倍音の間に完全5度があるのをすぐに発見できる。倍音列の厳密な計算は1600年代を待たなければならなかったが、完全5度の音程そのものは、古代ギリシャの頃から馴染みがあった。ピタゴラスは完全5度の集積で音律を作ったと伝わる。一本の弦、もしくは現代の楽器のように複雑化したものではないバルブのない一本の角笛であっても、たやすく得られる音程だ。
ところで、「ド」を基音とする倍音列を観察すると、属音「ソ」はすぐさま求められても、下属音「ファ」が「ド」の倍音列上には無い。もうひとつ別の楽器、完全5度下の長さを持つ弦や角笛を用意しなければならない。発想の飛躍の痕跡が、こういう部分にある。サブドミナントの接頭語「サブ」は、下、副の、弱い、などの意味を持つ。下属音は完全4度上の「ファ」ではなく、完全5度下の「ファ」であることに注意したい。
歌を歌う人ならすぐさま納得してくれると思うが、生身の人間にとって4度と5度はそうとう違う。かなりの開きがある。中世の音楽は、少なくとも記録された限りにおいては声が主体であって、中心音を隣り合った上下の音で説明する方法は生理に合っていた。4本線のネウマ譜が長く通用したのも、対象の筆頭が声だからであり、広い声域を必要としていなかったからである。
しかし彼らも、記録された曲を何度も何度も練習すれば上手くなる。上手くなれば声域も拡がる。ちょうどよく器楽が興る。5度が4度に対して優位に立つのが1430年代であって、その頃から、今日の我々が聴く「クラシック音楽」に、ぐんと近くなる。先の著書で柴田南雄はTSDの機能を「音響学的に自然な法則」と記しているが、これはもう少し別の理解、現代の我々にしっくりくる理解で捉えたい。この時代の作曲家はトリックアートのような驚きを目指したのだと考えたい。
左に示した図解は、視点を主調、手前側がドミナント、奥側がサブドミナント、中心に現れている空間をトニックとして喩えたものと理解されたい。おおよその目安として、中世は13〜14世紀、ルネサンス期は15~16世紀、バロック期は17〜18世紀、古典派・ロマン派を19〜20世紀としている。
今日では「機能和声」と一口に言うが、「機能」と「和声」は全く別のものとして考えたほうが良い。機能は和音にではなく低音や根音にあるし、ルネサンス期やバロック期の作曲は、それがどんなにホモフォニックな音楽であっても、あくまで対位法の産物であって、素材は響きではなく線であり、柱を立て梁を張って空間を作るという順序に則っている。バロック期では対位法の線をいっそう華やかなものにするため、線の素材をひとつひとつ見せる作曲法、フーガが発達した。この発展の果てにバッハやヘンデルがいる。
後期バロック、バッハのような作家の描く線はあまりに複雑で、ところどころ途切れもするし、線というより「帯」に見える部分もある。そうして、どんな素材を柱や梁にしたところで音楽は建つのだと、空間の空気の圧のようなものに気づいたジャン=フィリップ・ラモーが1722年に『和声論 Traité de l’harmonie』を編纂する。これは「線がなければ空間は生まれない」という考えから、「音楽にはそもそも最初に空間がある」という発想への大転換だった。
和声という考えは、長い音楽の歴史から見れば(今日においてもなお)新しい部類に属する考え方で、その成立と同時に「機能」の歴史的な役割が変化したことにも注目したい。空間だけで描けるようになったことによって、線から自由になったのである。すなわち、立方体を眺める自分の視点からも自由になったということであって、手前側からの一方向だけでなく、好きなときに好きな方向から描けるようになった。であるから、転調の複雑さ、巧妙さが、古典派・ロマン派の音楽の重要な課題となるのも時間の問題だったのだ。
古典派の時代に入り、かなり早い段階で、モーツァルトがそうした瞬間移動の術を身につけている。その具体例はここでも改めて触れることになるだろう。今日のコンサートで頻繁に演奏される、演奏家が特に演奏する古典派からロマン派まで、モーツァルトからウェーベルンまでの時代に焦点を当てて、さらに観察していくとしよう。(続く)