2017年1月20日金曜日

演奏家のための和声のはなし(6)音の網

 空間の豊かさ、線の自由さが、古典派以降の音楽の醍醐味だ。
 ゆえに、転調の巧妙さや複雑さが課題となったのは以前にも触れたとおり。7音の音階は次第に手狭なものになる。いっそう広い空間を確保するために、5度と3度を核にして12音をくまなく使おうという試みも起こる。12音をくまなく、と言えば、シェーンベルク一門の12音技法を思い浮かべるかもしれないが、それは「いままでの音楽と同じように書くため」のものだったと彼自身も何度も強調している。ロマン派の作曲家たちは彼に先んじて12音を等価のものとして扱っていた。そうした現場の実際に追いつくべく、新しい理論もまた考え出されるようになる。

 左の図をご覧いただきたい。
 理論家フーゴー・リーマン発案による「トーンネッツ」というものだ。決して何かの化学式ではない。この網目模様が(まさに)編み出されるきっかけとなった「ネオ・リーマン理論」については後回しにして、まずはこの中からCの字を探そう。そのCから右に進むとG、D、Aとある。左に進むとF、B♭、E♭がある。横方向には完全5度が並んでいるのだ。
 同様に、右向きの斜め線は長3度、左向きの斜め線は短3度で、規則正しく並べられている。正三角形は長三和音、逆三角形は短三和音になる。試しに「ド-ソ」の線を軸にして三角形を逆向きに(線対称移動)すると「ド・ミ・ソ」が「ド・ミ♭・ソ」になる。「ド」と「ソ」を共通音とした進行だ。


 もっともシンプルな例をシューベルト『弦楽四重奏第15番 ト長調 Op.161』に確認できる。ト長調と言っておきながら3小節目にはト短調に急変するという、何度聴いても長調の曲には聞こえない恐ろしい曲だ。

 ここで起きていることは「シ」が「シ♭」に変わるというだけのことだ。「ソ」と「レ」を保留して、1音だけ変える連結。トーンネッツの三角形を使えば「ソ-レ」の線対称移動ということになる。本当にこれだけで奈落に突き落とされるのだから、音楽は怖い。
 同じことは8小節目にも完全5度上(属調上)で起きている。「レ・ファ♯・ラ」が「レ・ファ・ラ」になる。「レ-ラ」の線対称移動が起きているのが分かるだろう。マーラーも『交響曲第6番』などでまったく同じことをしているが、あちらはなんとなく素っ頓狂な響きになるので、オーケストレーションの問題というより、人としての性格の違いの問題だろう。
 

 そのさらに拡大されたモデルをブラームスに確認できる。op.102『ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲』第1楽章部分。譜例では2小節目、「ラ♭・ド・ミ♭」から「ラ♭-ミ♭」を異名同音で読み替え線対称移動して「ソ♯・シ・レ♯」へ連結する。今度は「ソ♯-シ」で線対称移動する。長三和音から短三和音、短三和音から長三和音。元の和音に戻らないように進めていくと、6回目の連結で元の和音「ラ♭・ド・ミ♭」に戻ってこれてしまう。しかも、途中には「ミ・ソ・シ」という、出発地点の「ラ♭・ド・ミ♭」とは一個も共通音が被らない和音が出てくる。近親転調を繰り返していたら未来永劫出てこなそうな和音だ。最後に「ミ・ソ♯・シ」に「レ」を加え属七とし、彼の場合は解決せず、そのままさらに続いていく。古典的と評される彼であるけれども、こうした連結を見る限り、そうであるとは言い切れない。付け加えれば、彼のオーケストレーションもまた、特に弦の書き方において、古典的らしいものは見出せない。例の「ベートーヴェンの第10」というようなコピーは、キャッチーだが、実態には合わない。

 ブラームスと犬猿の仲だったワーグナー『トリスタンとイゾルデ』の、リスト編『イゾルデの愛の死』冒頭を示した。ここは第2幕からの引用に基づいたリストとの共作というべき箇所だけれども、ワーグナーの常套手段がコンパクトにまとまっているので、これを使う。あくまで和声進行についての話題なので、了解されたい。
 1小節目は「シ・レ・ファ♯・ソ♯」の付加6の和音から開始。「レ」を軸にして、「ラ♭=ソ♯」のある右斜め下方向に飛び、2小節目には「ファ・ラ♭・ド・レ」の付加6の和音へワープする。このワープの仕方が非常にワーグナー的だ。続いて「ファ」を「ファ♭」に、「レ」を「レ♭」にして、「ファ♭・レ♭・シ♭・ソ」の減七で終止する。減七の和音は短3度の集積であるから左向きの一直線になる。三角形をなしていないので、調的に「ご破算」ということがよく見えるだろう。右向きの一直線、増三和音も同様だ。
 この例は、ブラームスの例の根拠とするところと、実はそんなに変わらない。階段を一段一段すべて踏んで登る人と、何段か飛ばすせっかちな人の差でしかない。同じ階段を使っている。いったいワーグナーVS.ブラームス論争とは何だったのだろうか。同じ穴のムジナではないだろうか。その通りだ。ただ、政治性が違うとでも言っておこうか。
  
 こうなると、この二人の中間ということだって考えられる。ブラームスのようにみっちりは埋めず、ワーグナーよりかは控えめに1段飛ばしでワープしつつ、政治的な偏りなく元の場所に帰ってくる中道の作曲家がいてもおかしくない。その彼ほどワーグナーVS.ブラームス論争の仲介役にふさわしい人物はいないのではないか。その人物に望まれる通りの図形を示す左のモデルをご覧いただきたい。
 あえて作曲者名は出さず、このモデルの解説から始める。ハ長調のI度「ド・ミ・ソ」からスタートし、次は「ド」を軸に2足飛ばして「ラ♭・ド・ミ♭」へ控えめにワープする。「ミ♭・ソ・シ♭」はそのV度に当たるが、今度はそこから3足飛びで「シ・レ・ファ♯」。ここが憎い。ブラームスのような「シ-レ」の線対称移動で「ソ・シ・レ」に向かい、そこをV度として「ド・ミ・ソ」に解決する。
 
 このモデルはいったい誰かというと、プロコフィエフだ。彼の『ピーターと狼』の冒頭部分が、まさにワーグナーとブラームスのちょうど中間で書かれた書法の音楽だという、何とも意外な結末になった。

 「バッハの対位法とハイドン・モーツァルトの旋律を統合することが新しい世代の課題である。その意味で成功している作曲家はワーグナーとブラームスだ」とマーラーは言う。そうなると、さらに次の世代の課題はワーグナーとブラームスの統合だったということになるが、本国ではシェーンベルクが、それに当たった。
 方や、リーマンの弟子にはレーガーがいたが、彼の大家指向(体重と食欲も含む)のために、二人は破断してしまった。そのレーガーの音楽に心酔していたロシアの若鷲が、リーマンが示したよりもさらに鋭い方法によって、それを成就させたのだった。もっとも、彼の場合、本国に帰ってからというものワーグナーとブラームスよりもよほど面倒な相手を相手にせざるを得なかったので、自然とこのようなバランス感覚が育まれたのかどうかは、わからない。
 
 次のモデルはプロコフィエフと基本を同じくするが、その応用でもあり、しかもさらに複雑だ。例によって作曲者名を伏せた状態で、この解説を試みる。
 これは、曲の途中からの動きを図式化したものだ。とあるきっかけから「シ♭・レ・ファ」が「シ♭-ファ」で線対称移動し、「シ♭・レ♭・ファ」への交換が起きる。この間「ファ」を軸に「ファ・ラ・ド」は常にドミナントとして機能している。続いて左真横に3足ワープして「シ・レ♯・ファ♯」、そこでまた「シ-ファ♯」の線対称移動、「シ・レ・ファ♯」との交換が起きる。今度は「ファ♯」を軸に点対称移動し「ファ♯・ラ♯・ド♯」、これが「ファ♯・ラ・ド♯」に線対称移動。しばらく「ド♯」を軸に「ド♯、ミ♯・ソ♯」がドミナントとして機能するが、この「ド♯」が「ド」に移動するのと同時に崩れ、ワーグナーのように減七の和音で調的にご破算となる。 


 このモデルは、誰あろうモーツァルトのKv.543。『交響曲第39番』第4楽章から抜き出したものだ。機能和声で書かれたものをこれで説明しようとするから煩わしくなるんじゃないのか、と思われる向きもあるかもしれないが、機能和声ならなおさら「シ・レ♯・ファ♯」への移動が説明できない。ワーグナー流の瞬間移動の術が起きていると考えるほうが自然だ。
 イタリア流の旋律美を習得してから、バッハ流の対位法にのめり込んだ彼の経歴が、空間と線の扱いを自由自在なものとさせた。理論そのものの探求ではなく、創作の現場で、彼は機能を拡張させてきた。預言者だったという言い方もできるが、ロマン派は彼を先祖に戴いている。彼の示した「機能」の豊かなバリエーションがロマン派だったという言い方もできる。和声教育では重要人物とされながらあまり触れられないモーツァルトであるが、空間という音楽の本質に触れるとき、どうしても省みなくてはならない存在だ。彼の残した影響は、また改めて触れる。

 そのモーツァルトの存在があったために甚大な被害を被ったのは、ベートーヴェンその人であるが、中期にはすっかりモーツァルト流の瞬間移動を彼なりの方法で咀嚼、吸収し、op.58『ピアノ協奏曲第4番』ではプロコフィエフに先んじた図形を描いていたことを補足しておく。

 トーンネッツの元となった「ネオ・リーマン理論」の特徴は、長調と短調は天地にシンメトリカルなものであるとして、ハ短調の音階は「ソ・ファ・ミ♭・レ・ド・シ♭・ラ♭・ソ」、I度「ド・ミ♭・ソ」は「ソ」を根音と考え、そこから「ぶら下がった長三和音」であると解釈するところだ。下方倍音列なる、音楽における虚数のようなものまで考え出したが、これはさすがに本人もやりすぎたと思っていたらしい。シェーンベルクの12音技法が半音単位の1音を最小の素材とする音楽理解の解体再構築であるなら、リーマンの理論は1つの三和音を最小の素材とするそれだったと言える。いずれにせよ、どちらも顔の向いている方向は同じだ。5度と3度という音程には別の展開もある。それは次回に譲る。(続く)