公益財団法人さわかみオペラ芸術振興財団「MITSUKO」プロジェクト実行委員会(委員長:澤上篤人 以下「主催者」)の主催によって、日本語オペラ「MITSUKO」制作コンペティション(賞金1,000万)が行われ、2019年12月、作曲部門第一次選考通過者なしとの発表があった。同業者たちが触れていることもあるし、私も一応はオペラ作家のはしくれを自認しているので、突如として現れた高額コンペティションであるこの件について思ったところを書いてみることにする。
- コンペティションのあらまし
作曲部門に先立つ2019年6月、台本部門の選考が行われた。主催者指定のプロットに基づき書かれた74本の応募作(主催者発表)の中から平居宏朗、角直之、相原夕佳、佐佐木頼綱の四氏が選出された。作曲部門の参加者はこれらの台本から一人の作品を選び、アリアを含む二曲を作曲する形式で第一次選考が行われ、53本もしくは57本(と主催者の記述に揺れがある)の応募があった。通過者は台本作家と協働のうえ全編を作曲し、2020年8月頃に演奏会形式による演奏で本選考が行われる予定であったという。
私も友人から「賞金1,000万だってよ」と応募をそそのかされたりしたので、選出された台本にも目を通してみたのだが(台本が良ければ作曲しない理由はない。私だって遊ぶカネは欲しい)一読して、これは無理筋だ、と感じたのである。確かに我が国ではオペラ台本作家が育っていないという問題が現にある。が、それ以前の問題である。
- 台本部門最終候補作の問題
平居宏朗氏の台本には、まず登場人物にある「木花咲耶姫」や「聖母マリア」の名に違和感を抱く。いくらフィクションとはいえ一応は実在した人物をモティーフとしたオペラに、これら信仰の対象を軽々しく持ち出してくるのはいかがなものか。宗教にずさんな日本人の聴衆を相手にするだけならまだしも、「カルメン並みに世界中の人々に愛唱されるオペラ(主催者)」の台本として、これは世界の聴衆の理解を得られるのだろうか。
人と神なら、神が強くなくては困る。その力学に忠実になると、いったい誰が主役なのか分からない芝居になる。演出も難儀するに違いない。
角直之氏と相原夕佳氏の台本に共通する弱点は、歌手が歌う時間の長さを想定できていないことにある。例えば、角氏の台本には「払えたまえ清めたまえ」の祝詞が丸のまま引用されているが、これに音楽をつければ6、7分は掛かってしまう。主人公の半生を2時間程度に収めなければならないというのに、まったく関係ないもののためにこれだけの時間を割く必然性はない。ストレートプレイの舞台で演じるにしても散漫になる。
相原氏の台本は読み物として楽しいし、もしかしたらストレートプレイの舞台にはなるかもしれない。が、オペラにするには半量以上を削る必要がある。流行歌で一向に構わないので、一曲3分のなかにどれくらいの文字数が入るのかを一度数えてから執筆していただきたい。
相原氏の台本は読み物として楽しいし、もしかしたらストレートプレイの舞台にはなるかもしれない。が、オペラにするには半量以上を削る必要がある。流行歌で一向に構わないので、一曲3分のなかにどれくらいの文字数が入るのかを一度数えてから執筆していただきたい。
最終候補四者のうち、強いて作曲の可能性があると言うなら佐佐木頼綱氏のものとなるのだろうが、氏の作品はオペラではなくミュージカルの台本である。関係ない者たちが歌って踊り、科白劇だけ追えば物語のあらすじが理解できるという作り方はミュージカルのものである。
『サウンド・オブ・ミュージック』で歌われる『エーデルワイス』は感動的だが、歌の内容が物語と必ずしもリンクしているわけではない。主人公たちのアリアが全てあの感じと言えば伝わるだろうか。物語の本筋を歌わないならオペラの形式を選ばずとも良い。
『サウンド・オブ・ミュージック』で歌われる『エーデルワイス』は感動的だが、歌の内容が物語と必ずしもリンクしているわけではない。主人公たちのアリアが全てあの感じと言えば伝わるだろうか。物語の本筋を歌わないならオペラの形式を選ばずとも良い。
- 台本作家だけの責任とは言えない
四者に共通して言えるのは、詩文を詩文として別個にまとめようとしすぎるあまり、登場人物がみな、まるでリブレットの翻訳でも読むような日本語を話している点だ。刃物を持って激昂している江戸の男が詩文のような台詞を吐くのは、率直に言って、滑稽である。
また、そうした詩文にスペースが取られた結果、登場人物がみなあらすじを読むように状況を説明している。時には自分の心境さえ説明しているが、それは明らかに過多である。
第二幕第3場と第4場の間に突然10年の断絶を置くのも理解に苦しむ。聴衆に理解させるのもたいへん難しい。どの台本も、ここが構造上の欠陥となってしまっている。
第三幕は一転して遺産相続の話になる。それこそ『ジャンニ・スキッキ』ではないが、こうした話題が舞台に乗れば喜劇にしかなりようがないため、最後の最後でドラマとしてのシリアスネスを失う。いったい夫婦の愛を描きたいのか、海外に移住し苦労した日本人の立身出世を描きたいのか、遺産相続のドタバタを描きたいのか、まったく主題が定まらないままだ。
また、そうした詩文にスペースが取られた結果、登場人物がみなあらすじを読むように状況を説明している。時には自分の心境さえ説明しているが、それは明らかに過多である。
第二幕第3場と第4場の間に突然10年の断絶を置くのも理解に苦しむ。聴衆に理解させるのもたいへん難しい。どの台本も、ここが構造上の欠陥となってしまっている。
第三幕は一転して遺産相続の話になる。それこそ『ジャンニ・スキッキ』ではないが、こうした話題が舞台に乗れば喜劇にしかなりようがないため、最後の最後でドラマとしてのシリアスネスを失う。いったい夫婦の愛を描きたいのか、海外に移住し苦労した日本人の立身出世を描きたいのか、遺産相続のドタバタを描きたいのか、まったく主題が定まらないままだ。
主催者のサイトにも「メロディー感に乏しく」なったと「反省」している旨の記述があったが、これは台本作家たちの責任ばかりとも言えない。主催者指定のプロットが精査されていないということである。要するに情報を詰め込みすぎているのだ。それらをすべてフォローしようとすれば台本は長くなり、説明も多くなるのは自明である。練り直すこともできないプロットのもとで、応募者たちは隔靴掻痒の憾に苛まれながら執筆したことだろうが、主催者は台本作家と作曲家の協働に任せるということをせず、すべてご破産という形で、同じプロットのまま「第2期」の告知を始めてしまった。
- 日本語オペラの題材として適当なのか
身も蓋もない話をするが、そもそも「日本語オペラ」の主役としてクーデンホーフ光子は適しているのだろうか。光子その人の人生は想像に余るたいへんなものだし、実在した人物の評伝を元にオペラ化するという発想それ自体も(私の趣味ではないが)理解できるのだが、彼女の苦労の最たるは言語である。そんな彼女の苦労が「日本語オペラ」で描き切れるものだろうか。
以前、ソプラノ歌手チョン・ウォルソン氏の演じるモノオペラ『ザ・ラストクイーン』を拝見した。日本の皇族として生まれ李王・垠に嫁いだ朝鮮王朝最後の王妃・李方子の物語だ。言語は日本語だけだったが、登場人物が彼女ひとりに限定され、彼女の独白によってドラマが彫塑されていることもあって違和感が無かった。音楽の書法には少々不慣れなものを感じる瞬間があったものの、方子妃の人生は正しく追える形に整えられていた。チョン氏が方子妃役を熱望したその理由も良く伝わり、評伝のオペラ化かくあるべしと思ったのである。
私が仮にクーデンホーフ光子を題材を選ぶなら、台本の大部分にドイツ語を用いることを躊躇しないだろう(私が充分にドイツ語を扱えるなら、の話だが。)日本での出会いや両親との諍いは必要ないかもしれない。最初は相槌もままならない彼女が徐々に言語を習得し、亡き夫の親族と互角に渡り合えるようになっていく様を詳細に描くほうが、物語は充実するだろう。しかし、当プロジェクトの使用言語が日本語に限定されている以上、オーストリア人たちが親切にも日本語を話してくれるわけであるから、これは描きようがない。
- 越境ということ
今日の音楽家が今日に生活し、今日の聴衆から祝福を受けなければならない以上、ましてやその作品で世界に打って出ようと言うなら、当然、ポリティカル・コレクトネスにも気を配るべきはずであるが、クーデンホーフ光子を扱う上で避けて通れない人種差別というセンシティブな問題を今日的なあり方で解いた台本はほとんど見られず、「日本スゴイ系」のドメスティックなまとめ方をしていた。ある程度は台本作家たちの趣味でもあろうが、指定プロットに沿えばそうなるだろうし、こういうものを好んで主催者が選んだということである。
というのも、主催者が欲しているのは「オペラ」ではなく「日本語オペラ」だからだ。もう少し正確に書けば「世界に絶賛された日本人を描き世界に絶賛される日本語オペラ」(もっと意地悪く言えば「〈日本スゴイ〉と日本人が歌うイタリア・オペラ風日本語オペラ」)である。ある意味、現代日本の世相を反映しているとも言えるが、これは主催者の問題というよりも、もっと根本的な、我が国におけるクラシック音楽の位置そのものという問題に思い至る。つまり、ある種の西洋コンプレックスを強く持つ層に好んで受容されているということ。その跳ねっ返りとして「日本スゴイ系」題材が選ばれることにも私は驚かない。
越境した人を描いた作品が、その人と同じく越境していく保証はどこにもない。そういう仕事はむしろ架空の存在のほうが適している。主催者が例に挙げている『カルメン』にしても『トゥーランドット』にしても、まったく空想の産物である。まったく空想の人物に人間の愚かさ、悲しさ、滑稽さという鑑賞者自身の問題を代弁させているからこそ越境するのではないか。日本人の空想だってもちろん越境する。それが鑑賞者自身の体験として結びつくなら。ピカチュウは世界の至るところにいて、時には歌にも歌われる(ネッタ・バルジライ『Toy』)。主催者のクーデンホーフ光子に対する思い入れは理解しなくもないが、さて、彼女はいったい鑑賞者の何を代弁してくれるだろうか。
せっかく一人の作曲家に1,000万払えるだけの元手があるなら、その年に上演された新作日本語オペラの中から主催者が選んだ一作品に100万を贈呈し、これを10年続け、徐々に人々を善導していくほうが、結果的には、主催者本来の目的が成就されるのではないか。審査員にも譜面が読めない人がいるのだろうから(吹奏楽の朝日作曲賞と同様、音源提出の項目にこれ以外の意味はない)、そのほうが審査しやすかろう。どうしてもクーデンホーフ光子の物語が欲しいなら、10年後に、10年間の蓄積のなかで発掘した作曲家に委嘱すれば良いのである。
もっとも、『トゥーランドット』以降世界中で愛されているオペラは無いと言い切るような主催者なので(この言い草は当のプッチーニに対する侮辱に等しくないか)これも毎年受賞者なしとなるかもしれないが。
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第3期、第4期と、延々と終わらないコンペティションになるだろうと愚考致しますが、本稿は第2期に参加したい方をお引き止めする目的のものではありません。他人の話にかこつけて自分の話を書いただけのものです。なお、私はすでに(クーデンホーフではなく徳光)光子をオペラに書いているので参加は遠慮申し上げ、今後も粛々とダメ人間や変態性欲ジジイばかり出てくるオペラを書いていく所存です。一口1,000万円の寄付なら随時受け付けております。