2013年4月26日金曜日

ぬか漬けを食う


 精一杯に働いて、朝まで飲む。それが若き母の日常だった。
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 僕は母方の親戚と、ひとりも会わずに育ってきた。母の両親は高度経済成長の途上であの世の人になっていて、母の弟は戦後間もなく、幼くして死んでしまった。要するに誰もいなかったのだ。早死の家系なのだと母は言っていたが、母の祖母(つまり僕の曾祖母)は白寿を得てから死んだ。昭和15年の母の時代の祖母なのだから当時としては珍しい長寿で、死んだときには大往生を祝って赤飯が炊かれたという。
 母の父(つまり僕の祖父)は、毎日飲んではちゃぶ台をひっくり返して暴れる、絵に描いたような飲んだくれだったという。戦後は立川の基地で米軍相手に仕事をしていたそうだが、そこで手にした金をすべて飲んでしまった。周囲の反対を押し切って従妹と結婚したのが祟ってか、母は盲人として生まれていた。障害者に対して社会は昔よりも現代の方がはるかに優しい。めくらの子供なんて世間様に見せられたもんじゃねえ、と、幼い母は押し入れに閉じ込められ、近所の子供からは石を投げられた。
 しかし八王子の盲学校に通い始めた母が、一家の家計を支えるようになった。
 当時の盲人の代表的な仕事として、按摩がある。学校に通いながら按摩を学び、客を相手に商売して、金が手にできる。それが大事な資金となった。灯火管制の暗い部屋で飯粒が優雅に泳ぐ雑炊を食ってしのぎ、空からはB29の爆弾が降りそそぎ、御名御璽の玉音がラジオから流れたあとの立川で、母は妹を背中に負ぶって働いた。
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 その妹が、行方不明なのだと母は言っていた。
 あんにゃろうめは恩知らずで頭にくらあ。と、母は思い出すたびにぶつぶつ言っていたが、ミレニアムを過ぎた3年目にして、この妹(つまり僕のおば)とようやく会うことができた。開口一番「姉ちゃん今までどこほっつき歩いてたんだに」と言って、僕はびっくりした。聞けばおばさんは一度も多摩を離れずに、ボランティアで母校の盲学校(おばさんも盲人だ)の事務仕事を手伝ったりしていたのだ。なんのことはない、行方不明だったのは僕の母のほうだったのである。
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 母は(外資のブランドショップが占拠する前の)青山通りに住んでいて、オリンピックと都電の消滅とを見送った。東急のホテルで按摩をしながら生計を立て、土地柄、芸能人や有力者の客が多く(人気絶頂の坂本九なども、お得意様のひとりだった)立派な店でよく酒も飲ませてもらっていたという。高価な洋酒の筆頭がジョニ黒の時代。更新した按摩師の免許には美濃部知事の署名。母は腕利きの稼ぎ手であった。父と見合いをし、結婚して仕事を辞めると職場に告げたときには、上司と相当な戦争を繰り広げたらしい。
 母は全盲ではなく弱視なので、まったく見えないことはない。ただ、いつ見えなくなるかはわからないという不安と戦っていた。稼ぎを捨ててでも結婚を選んだ母の目は、今でもまだ見えている。本を鼻にくっつければ、読める。点字はかえって読むのが面倒らしい。「あたしゃ一人が気楽でいいね。目がつぶれねえと前もって分かってりゃあ一人でいたのになあ」と、時折りぼやく。「でも、そしたらおまえさんは生まれてねえか。」こりゃまた失礼いたしました、と、古いギャグも忘れずに付け加えるのである。
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 今では埼玉の奥地で毎日寝転がっている母の半生は、書けないことも多い。
 五味川純平から「小説のモデルになってくれないか」と母は口説かれていた。あったことをそのまま書けば物語になるほど壮絶な半生だった。だが母は、大事な親友を案じてそれを断わった。おまえさんも生まれたからやっぱし断わってよかったよ。世間様に知られるとはおっかねえことだかんな。僕が生まれると(大好きだった酒も含めて)それまでの生活をすっぱり断ち切った。だから僕も、母から聞いた話をこれ以上は書くまい。
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 母の父については、母の思い出を聞いて知っている。
 母の妹については、聞くまでもなく直接会って知っている。
 しかし、母の母については、母は思い出を語ろうとしない。「どうしょもねえクソオヤジ」と違って優しい人だったことぐらいは漏れてくる。それ以上のことが何も分からない。
 ただ母は、母(つまり僕の祖母)のぬか床を受け継いで持っていた。どんなに飲んで、ぐでんぐでんに酔っぱらって帰ってきた日も、かかさず樽をかき回して、野菜を漬け続けたぬか床であった。煮物の日でも、カレーの日でも、ぬか漬けは毎日の食卓にかならず乗っていて、子供の僕は当たり前のようにそれを食べていた。面倒臭がりの母でも、このぬか床を父に触らせた姿を見たことがなかった。
 小学5年の夏。母は体調を崩して入院した。
 僕は父の実家に預けられ、従兄姉と遊んで昼を過ごし、夜は父が迎えに来た。入院は一か月ほどかかった。母は大の薬嫌いで、処方された薬をこっそり捨てていたのだ。こんなもん飲むくれえなら治んなくったってかまあしねえよ。母は小さな声で、しかし頑なだった。
 そんな不真面目な態度でもなんとか「釈放」され、「娑婆」に帰ってきた母は、いつものように漬物をしようとぬか床の樽の蓋をあけた。父も母も入院などはじめての経験で、ぬか床のことなどすっかり忘れていたのがいけなかった。塩揉みした3本のキュウリを手にした母から、悲鳴ともため息ともつかない声が漏れた。
 だめんなっちまってらあ。
 母はしゃがみ込んだまま動かなかった。蛇口からは水が流れ、流しの下の扉は開いたままだった。四つ足のブラウン管だけがにぎやかだった。しばらくして、母は死んだぬか床を、木の樽ごと黙って真っ黒いビニール袋に包み、その口をへたくそにガムテープでとめた。入院する前よりよほど具合悪そうに、母は小さく背中を丸めていた。
 こうして、母しかしらない祖母の歴史は、ごみの日に火葬に出された。
 「あーあ、ギョメーギョジ。」
 縁側にサンダルを放った母がさばさばと言った。
 「なあにそれ?」
 「さあねえ、あたしゃあんだかしらねえけどよ」ただ、おふくろさんがよく言ってたんだわ。煮物焦がしたときなんかによ、ギョメーギョジってよ。僕は大きくなって勉強するまで、「ギョメーギョジ」の意味を勘違いして、覚えていた。
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 さ。だめんなっちまったもんはしょうがなかんべ。母は新しい米ぬかを近所の米屋からもらってきて、ぬか床を作った。はじめて漬けたキュウリは塩の味しかしなかった。あんま美味いもんでねえな。母は笑っていた。そんなことはないよと言いたかったが、僕の顔も父の顔も正直だった。家族三人、馬鹿みたいに顔をつきあわせて、かりかりぽりぽりと青臭いキュウリを齧っていた。
 この新しいぬか床を、父もいっしょになってかき回している今日である。

 【ぬか漬けのつくりかた】
 
 ぬか床 1樽
 野菜  適当
 
 (1)漬ける
 (2)洗う
 (3)食う

 ぬか漬けは漬けた野菜の経験がそのまま味になっていくので、いろいろな種類の野菜を漬けたほうが味が複雑になっていく。味の秘訣は、「継続は力なり」