TwitterとFacebookだけは自分の生存報告もかねて投稿しているが、これらのタイムラインもできるだけ目を通さないようにしている。だいたいは、画面上に見える範囲を一瞥して、終わり。このように情報を目に耳にしないよう極力心がけていても、しかし様々な人の噂は不思議と耳に入ってくるものだ。
最近では、世間で佐村河内守氏の交響曲が話題であるという。
テレビで特集を組まれたとのことで、彼の交響曲は破竹の勢いで売り上げを伸ばしているという。人から聞くまで知らなかった。この作品について、会う人ごとに感想を求められるのだが、申し訳ないことに僕はまだ一回も、断片すらも聴いていない。聴いていないので感想を述べようもない。多くの音楽家たちの発言を見聞きする限り、彼らのなかではあまり評判は芳しくないようである。これも、なにしろ現物を聴いていないので、どの程度信用して良いものかは図りかねている。
ただ一つ。まだ作品を知らない僕ですら、彼の仕事を評価できる点がある。
それは、交響曲という名の作品を、売ったことだ。
ついこの間まで、通俗の副題がついていないベートーヴェンの交響曲ですらテレビに流れなかった現代日本で(のだめブームのころは、まだ僕もテレビを見ていた)生きている日本人が交響曲を書いて、それが世間で売れたのだから、これは朗報である。「もっと優れた作品」を列挙して反論している人もいるが、まず、生きている日本人が交響曲を書いている事実が世間に広く浸透しなければ、それらの「優れた作品」も世間に顧みられることはあるまい。作曲家たちはもっと彼に感謝したらいかがかと思う。
ただ一つ。まだ作品を知らない僕ですら、彼の仕事を評価できる点がある。
それは、交響曲という名の作品を、売ったことだ。
ついこの間まで、通俗の副題がついていないベートーヴェンの交響曲ですらテレビに流れなかった現代日本で(のだめブームのころは、まだ僕もテレビを見ていた)生きている日本人が交響曲を書いて、それが世間で売れたのだから、これは朗報である。「もっと優れた作品」を列挙して反論している人もいるが、まず、生きている日本人が交響曲を書いている事実が世間に広く浸透しなければ、それらの「優れた作品」も世間に顧みられることはあるまい。作曲家たちはもっと彼に感謝したらいかがかと思う。
クラシックファンをのだめファンに出来た「のだめ」と比べ、のだめファンをクラシックファンには出来なかったクラシック業界の二の舞としないためにも、彼の成果を大事に活かしたら良いと思う。
僕は、おそらく、この業界の誰よりも社会の底辺と親しく交わってきたと思う。
そんな僕は、大衆酒場に行くと必ず知らない人に絡まれる星の下なので、その都度、自分の身上を説明する必要に迫られる。そこでかくのごとしと申し上げても、(まず僕の見た目がクラシックと縁遠そうなことに笑われるのは当たり前のこととして)「クラシックって今でも書いている人がいるの?」と驚きとともに返されるのが、普通だ。これからはこの説明が省けるのだから、なんともありがたい話である。
さて。この驚きのあとに続く会話は、およそ2つのパターンに分類できる。
ひとつは「オーケストラとかも書けるの?」と訊いてくるパターン。そんな彼は、僕が「書ける」と答えると「かっこいい」と素直に目を輝かしてくれるので、一杯ごちそうしたくなってくる。特殊技能と思われていることは、それがどんなに彼に縁の遠い世界のものであっても、酒場では尊敬の対象となるのである。
もうひとつは、クラシック音楽そのものに疑問をふっかけてくるパターン。
「音楽とは感動させるためにあるんでしょう?」
「クラシックって学問になっちゃってるからダメなんじゃないの?」
「それって自己満足なんじゃないの?」
彼にとって、クラシック音楽は、堅苦しくて、退屈で、つまらなくて、ミイラを拝んでいる宗教のように見えているのだ。こちらも美味しく酒が呑みたいので聞き流すことにしているが、こちらの酒量とあちらのしつこさが掛け算されると、そうもいかなくなってくる。
でも、モーツァルトもシューベルトも、ほんとうは今の僕より若いのだ。
古典か現代か。古くから続く芸能の類いには、かならずこのような問いが付いて回る。
立川談志も、かつて落語の枕でこのようなことを語っていた。現代人にも分かりやすくするために現代の要素を投入しすぎて、もう古典には戻れなくなったことを彼は嘆いていた。現代音楽もまた、現代人にとって聴きやすく、また弾きやすく書きやすい形にしたがって変化してきたという観点で顧みる必要があろう。
しかし、だからこそ、古典というものは更に顧みられなくてはならないのである。
古典というものは、誰にも登れない至高の極みゆえに残ったのではなく(誰にも登れない場所を誰がどうやってそれと認めることができるのか)、共感性のカタマリだからこそ残ったのであって、自分のことを棚に上げて言う文句は快感だ、などという枕草子は、実に千年も残ってしまうのである。
お金をうまく稼ぐ方法だの、恋愛をうまくやっていく方法だの、アーティストが生き残るための方法だのと、マニュアル本の類いに満ちあふれている昨今ではあるが、これだって今の世に始まったことではなく、江戸の本にはむしろ沢山あった。だが、金を得たところで自由にはならないことを人は本能的に知っている。ゆえに、より多くの自由を与えてくれるものを、人は本能的に遺していく。それが今日に揃う古典の結果である。
白州正子が著書「老木の花」で友枝喜久夫という能楽師を紹介している。芸術院会員でも人間国宝でもなく、晩年には視力を失ったので舞台にはちょっとした傷もあるが、いかにも能に縁遠そうな若いお嬢さんやジーンズ姿の若者、ネクタイ姿の会社員風を涙させて帰す。「ひたすら己を虚しうして稽古に打ち込んでいるからで、もはや芸というよりも魂の問題である」と、彼女は熱を込めて書いている。
感動の強さゆえに業界に対する非難も苛烈で「能を難解なものにしたのはインテリが悪いので、世にもありがたい『芸術』に祭あげ、専門家がそれに乗っかって一種の権威主義を造り上げたのだ」とまで言う。僕はここまでの率直な物言いを避けるが、しかし、愛が人を滅ぼすこともあることを、僕は知っている。
ずいぶんと話がずれた。
佐村河内氏の作品が、どの程度にどれほどのものなのかを僕は知らない。ただ、音楽家たちの物言いを見聞きして非常に危惧を抱くのは、「聴衆は正しい」という大前提に則っている意見の少ないことだ。
聴衆が感動したのであれば、それは感動したのであり、感動しなかったのならば、それは感動しなかったのだ。ただそれだけのことだ。僕だって、感動したと言ってくれれば嬉しいに決まっている。感動しなかったと言われれば、悲しいに決まっている。でもそんな僕の感情なんて聴衆のなかではまったく意味の無いことで、彼らが抱いた感想は彼らのなかで絶対的に正しいことなのだ。呑めない人に酒を出し、椎茸が嫌いな人に椎茸出汁の料理を出した僕のほうが、結局のところ、悪いのである。
とは言え、僕は酒好きをやめられないし、椎茸だって嫌いにはなれない。これもまた僕のなかで正しいことである。なので僕は、来る日も来る日も、どんこを煮込むしかない。僕が腕を磨く努力を怠りたくないのは、椎茸好きの客に喜んでほしいからであるし、目を丸くして驚いてほしいからである。他の誰を後悔させてでも、彼らのことだけは裏切りたくないし、後悔させたくないからである。
しかし、正しいということと、価値の有無とは別個の話である。ここを勘違いすると足を掬われる。足を掬われるのは聴衆だけではなく、演奏家も、作曲家もまた、同様である。自分の抱く「権威主義」をくすぐってくれるような物言いを好むようになれば、それは商売男に金を巻き上げられる哀れな女とたいして変わらない。クラシック音楽を活かすも殺すも、この業界の人々の「愛のカタチ」次第なのだ。
この現状と問題を僕にまざまざと見せてくれた点においても、氏の仕事は、僕にとって価値があったと評価したい。この評価が良くも悪くも変わるのが怖いので、この先、僕はこれを聴くべきなのかどうか、とても迷っている。
僕は、おそらく、この業界の誰よりも社会の底辺と親しく交わってきたと思う。
そんな僕は、大衆酒場に行くと必ず知らない人に絡まれる星の下なので、その都度、自分の身上を説明する必要に迫られる。そこでかくのごとしと申し上げても、(まず僕の見た目がクラシックと縁遠そうなことに笑われるのは当たり前のこととして)「クラシックって今でも書いている人がいるの?」と驚きとともに返されるのが、普通だ。これからはこの説明が省けるのだから、なんともありがたい話である。
さて。この驚きのあとに続く会話は、およそ2つのパターンに分類できる。
ひとつは「オーケストラとかも書けるの?」と訊いてくるパターン。そんな彼は、僕が「書ける」と答えると「かっこいい」と素直に目を輝かしてくれるので、一杯ごちそうしたくなってくる。特殊技能と思われていることは、それがどんなに彼に縁の遠い世界のものであっても、酒場では尊敬の対象となるのである。
もうひとつは、クラシック音楽そのものに疑問をふっかけてくるパターン。
「音楽とは感動させるためにあるんでしょう?」
「クラシックって学問になっちゃってるからダメなんじゃないの?」
「それって自己満足なんじゃないの?」
彼にとって、クラシック音楽は、堅苦しくて、退屈で、つまらなくて、ミイラを拝んでいる宗教のように見えているのだ。こちらも美味しく酒が呑みたいので聞き流すことにしているが、こちらの酒量とあちらのしつこさが掛け算されると、そうもいかなくなってくる。
「もしも人を感動せしめる精神がこの世に存在するとすれば、それは人を感動させようなどという甘っちょろい精神性などというものをかなぐり捨てるところからしか生まれ得ません。音楽の大なることに感動するのは聴衆よりまず演奏家であり作曲家なのです。そして音楽から受け取ったものをそのまま聴衆に伝えるには身につけるべき課題は多く、献身的に学究の徒に徹して音楽を研究しなければならず、そこに自己満足など生じる余地は無いのです。」
だなどと、ついつい冷静に言ってしまう。
当然、さらに絡まれることになって、後悔する。
ただ、彼が言いたいことの中身の、そのまた奥のほうの中身は、僕だって汲み取れなくはないのだ。彼があまりにもろれつの回らない舌でくだを巻くからイライラしながら返してしまうだけで。若者たちが衝動的に見よう見まねでギターを持ちたくなり、化粧をしてライヴハウスの舞台に立ちたくなるような現象が起きなきゃ、音楽として嘘だろう。言葉を変えて喩えれば、彼はそのようなことを言いたいに違いないのだ。たしかに、ウォレットチェーンをじゃらじゃら言わせながら東京文化会館にオペラを観に来る若者を、僕は見たことが無い。
当然、さらに絡まれることになって、後悔する。
ただ、彼が言いたいことの中身の、そのまた奥のほうの中身は、僕だって汲み取れなくはないのだ。彼があまりにもろれつの回らない舌でくだを巻くからイライラしながら返してしまうだけで。若者たちが衝動的に見よう見まねでギターを持ちたくなり、化粧をしてライヴハウスの舞台に立ちたくなるような現象が起きなきゃ、音楽として嘘だろう。言葉を変えて喩えれば、彼はそのようなことを言いたいに違いないのだ。たしかに、ウォレットチェーンをじゃらじゃら言わせながら東京文化会館にオペラを観に来る若者を、僕は見たことが無い。
でも、モーツァルトもシューベルトも、ほんとうは今の僕より若いのだ。
古典か現代か。古くから続く芸能の類いには、かならずこのような問いが付いて回る。
立川談志も、かつて落語の枕でこのようなことを語っていた。現代人にも分かりやすくするために現代の要素を投入しすぎて、もう古典には戻れなくなったことを彼は嘆いていた。現代音楽もまた、現代人にとって聴きやすく、また弾きやすく書きやすい形にしたがって変化してきたという観点で顧みる必要があろう。
しかし、だからこそ、古典というものは更に顧みられなくてはならないのである。
古典というものは、誰にも登れない至高の極みゆえに残ったのではなく(誰にも登れない場所を誰がどうやってそれと認めることができるのか)、共感性のカタマリだからこそ残ったのであって、自分のことを棚に上げて言う文句は快感だ、などという枕草子は、実に千年も残ってしまうのである。
お金をうまく稼ぐ方法だの、恋愛をうまくやっていく方法だの、アーティストが生き残るための方法だのと、マニュアル本の類いに満ちあふれている昨今ではあるが、これだって今の世に始まったことではなく、江戸の本にはむしろ沢山あった。だが、金を得たところで自由にはならないことを人は本能的に知っている。ゆえに、より多くの自由を与えてくれるものを、人は本能的に遺していく。それが今日に揃う古典の結果である。
白州正子が著書「老木の花」で友枝喜久夫という能楽師を紹介している。芸術院会員でも人間国宝でもなく、晩年には視力を失ったので舞台にはちょっとした傷もあるが、いかにも能に縁遠そうな若いお嬢さんやジーンズ姿の若者、ネクタイ姿の会社員風を涙させて帰す。「ひたすら己を虚しうして稽古に打ち込んでいるからで、もはや芸というよりも魂の問題である」と、彼女は熱を込めて書いている。
感動の強さゆえに業界に対する非難も苛烈で「能を難解なものにしたのはインテリが悪いので、世にもありがたい『芸術』に祭あげ、専門家がそれに乗っかって一種の権威主義を造り上げたのだ」とまで言う。僕はここまでの率直な物言いを避けるが、しかし、愛が人を滅ぼすこともあることを、僕は知っている。
ずいぶんと話がずれた。
佐村河内氏の作品が、どの程度にどれほどのものなのかを僕は知らない。ただ、音楽家たちの物言いを見聞きして非常に危惧を抱くのは、「聴衆は正しい」という大前提に則っている意見の少ないことだ。
聴衆が感動したのであれば、それは感動したのであり、感動しなかったのならば、それは感動しなかったのだ。ただそれだけのことだ。僕だって、感動したと言ってくれれば嬉しいに決まっている。感動しなかったと言われれば、悲しいに決まっている。でもそんな僕の感情なんて聴衆のなかではまったく意味の無いことで、彼らが抱いた感想は彼らのなかで絶対的に正しいことなのだ。呑めない人に酒を出し、椎茸が嫌いな人に椎茸出汁の料理を出した僕のほうが、結局のところ、悪いのである。
とは言え、僕は酒好きをやめられないし、椎茸だって嫌いにはなれない。これもまた僕のなかで正しいことである。なので僕は、来る日も来る日も、どんこを煮込むしかない。僕が腕を磨く努力を怠りたくないのは、椎茸好きの客に喜んでほしいからであるし、目を丸くして驚いてほしいからである。他の誰を後悔させてでも、彼らのことだけは裏切りたくないし、後悔させたくないからである。
しかし、正しいということと、価値の有無とは別個の話である。ここを勘違いすると足を掬われる。足を掬われるのは聴衆だけではなく、演奏家も、作曲家もまた、同様である。自分の抱く「権威主義」をくすぐってくれるような物言いを好むようになれば、それは商売男に金を巻き上げられる哀れな女とたいして変わらない。クラシック音楽を活かすも殺すも、この業界の人々の「愛のカタチ」次第なのだ。
この現状と問題を僕にまざまざと見せてくれた点においても、氏の仕事は、僕にとって価値があったと評価したい。この評価が良くも悪くも変わるのが怖いので、この先、僕はこれを聴くべきなのかどうか、とても迷っている。