2013年4月23日火曜日

提示部


 あなたと僕が、とある居酒屋で酒を飲んでいるとする。
 もつの煮込みを食べながら、僕は焼酎を飲み、あなたはハイボールを飲んでいる。僕はタバコを立て続けに吸いながら、僕は僕の興味に従って、例えば演歌の発祥について饒舌に喋っているはずだ。
 ところで会話というものは、ふとしたきっかけで話題が戻ることがある。
 「だからさっきの話じゃないけれども、そもそも自由民権運動というものは」などと僕が喋り出すころには、僕たちが食べたもつの煮込みは、すでに胃袋のなかにある。焼酎もハイボールも肝臓で分解されつつあり、タバコはくたくたの吸い殻になっている。これらが元の姿に戻ることは二度と無い。
 ソナタ形式の再現部というものは、このようなものである。
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 最近の若い人は、再現部をコピペしちゃうんだよね。と、N先生が酒を飲みながら嘆いていた。変えたくならないのかね。ならないんだろうな。僕が思うに、再現部という名称が良くなかった。他に何が良いのかと聞かれても困るけれども。
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 すでに消して久しい文章のひとつに、僕が中退直後、とあるレッスンにもぐった際の様子を描写したものがあった。僕は作品を講師の彼に見てもらい、(もう変更のかなわない作品であったが)有益なアドバイスを受けた。最後は彼の最新作の楽譜を、音源を聴きながら、教室にいる一同で見た。
 そこには繰り返し記号が書かれていて、「ようやくこれを書く勇気が持てたんだよね」と彼は言った。書いちゃいけないものなんてないんだ。生徒たちは深く頷いていた。繰り返し記号を書いたところでソナタ形式になるわけじゃあるまいし。生徒たちはくすくすと笑い出した。この「ソナタ形式になるわけじゃあるまいし」の一言に、しかし僕は強く引っ掛かった。前後の文章に矛盾があったからだ。書いてはいけないものはない。ただしソナタ形式を除く。普通に解釈すれば、そのようになる。
 僕は当時、純粋に現代音楽の未来を信じる少年であった。
 だから、自分の作品にもソナタ形式を選択する少年ではなかった。それはもう終わった時代のものだと信じていた。「自分の美意識がソナタ形式を選択していない」のだとも思っていたのだが、しかし彼の一言で、それがわからなくなった。作曲家には何を書いても良い自由がある。そこには、ソナタ形式を書く自由も含むべきだ。そうでなければ自由とは言えない。僕は本当に自由なのだろうか。
 だったら一度、大真面目に試してやろうじゃないか。
 僕がソナタ形式に取り組むきっかけは、そのようなものであった。
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 まったくの蛮勇であった。僕はこれを人には勧めない。
 少しずつ音楽史をさかのぼっていくことで、僕は断絶を思い知った。
 少し前に「7分間で見る音楽の歴史」なる動画が話題になったが、伝統は本当に、あちらへと流れていったのだと思う。
 特に、第二次大戦を境に、強い断絶を感じた。直感なので根拠は無い。
 だがそれは、こちらの分野の世間的な人気の高い作家の作品でも感じた。例えば、ショスタコーヴィチ。彼の音楽は残っていくのだろうが、人々からソ連と戦争の記憶が薄れていくなかで、代表作の看板は変わっていくだろうと思う。織田作之助の小説のように、彼本人を知らないと読み解けない秘密が多すぎるからだ。
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 単純だが根本的な問いとして、そもそもソナタ形式は二部形式なのか、それとも三部形式なのかという疑問がある。日本で音楽の教育を受けた者のほとんどは三部形式と答えるのではないかと思う。提示部、展開部、再現部という3つの名称が深く刷り込まれている。
 しかし、それらがきれいに三等分された実例など、見つけるのは不可能である。
 ハイドンやモーツァルトのソナタの後半が繰り返されているのも、展開部と再現部のふたつの部分を繰り返していると解釈するのはやはり不自然で、二部形式の後半を繰り返していると考えるほうが自然である。
 諸井三郎のベートーヴェンの分析を読むと、彼は初期の作品の展開部の短さを個性の未発達として捉えているふしがある。「展開部が小さいという特徴」「展開に対する技術的な弱さ」などという表現が、それである。後期から逆算すればそう言えなくもないのかもしれないが、ベートーヴェン自身がハイドンやモーツァルトから逸脱していった後の成果を初期に当てはめるのは、無理がある。
 では、ソナタでは何が提示され、何を展開し、何を再現しているのか。
 いちばん極端な例のひとつをあげればベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第10番であろうか。何も提示してないし、何も展開しておらず、何も再現していない。そう言っても構わないほどの抽象世界である。この曲については別の機会にもう一度書きたい。
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 この話はもう少し分けて語らなければならない。
 このソナタ形式の話の主題は、芸術音楽の作曲家はみんなソナタ形式で書くべきだ、などという話ではない。すべての形式に勝るものだ。などという話でもない。音楽という現象をもっとも聴衆に把握させやすい形式ではあるのだが、それでも、そんなことを言いたいわけではない。この話の主題は「自由」についてだ。作曲家は何を書いても良い自由を持っている。その自由とは何なのか。これを、少しずつ書いていこう。酒でも飲みながら。