僕は幼い頃から包丁を握っていた。
代々、西澤家は男子厨房に立つ家系である。僕が生まれたときにはすでに祖父は往生していたので、父から伝え聞くところしか知らないが、祖父は祖母とよく「てめえ台所に入るなっつったろう」と、取っ組み合いのケンカをしていたという。川越・喜多院の門前の団子屋で丁稚奉公をした過去を持つ祖父であった。だから粉の扱いが上手く、祖父の打つうどんは評判だったと聞く。先日亡くなった父の兄も、GHQ占領下の米軍基地で包丁を握っていた人だった。
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人が触ると、台所は微妙に変化するものだ。
いつも手に届くところに置いてある菜箸やしょう油の位置が、なんだか微妙に変わるのである。世界のすべての夫婦も、元はと言えば他人である。「パパが料理を作ってくれるって」という家族サービスも、一日だけで終わるから許されるのであって、「片付けは私がやるから」というのも、あれは感謝というより、縄張りを荒らされたことに対する防衛本能が働いているのである。自分で片付ければ菜箸は元の位置に無事に収まる。
たとえ縄張りをひっちゃかめっちゃかに荒らされても、この先ずっと旦那が料理を作ってくれるというのなら、そっくりそのまま明け渡すのもやぶさかではなかろうが、普通はそうはならない。3日も旦那が台所を荒らせば、いくら見た目をキレイに片付けようと、「あなた菜箸どこやったのよ」と、ケンカになる。
祖父と祖母は、毎日の台所が桶狭間だったわけである。
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その遺伝子を着々と受け継いだ父は、今でも台所に立っている。
父はおよそ何でも自分で出来る人で、僕が小学生だったころは割烹着や体操着を入れる袋を家庭で縫ったものだが、それも我が家では母ではなく(母が盲人であるという理由もあるにはあるが)父が縫っていた。そしてそれは素晴らしい出来だった。若い頃はあまりに部屋をキレイにしていたので、女の人が寄り付かなかったそうである。
これは楽ができるわい、と思った母が、めでたく妻になった。
もちろん父にも仕事があるから、普段は母の料理であるが、母は面倒臭がりだった。(僕は母のこの血を強く受け継いだ。)盆や正月休みになると母は父に料理を任せていた。母は台所を自分の縄張りだとは思っていなかったようである。
この手伝いを僕もしていたので、幼い頃から包丁を握っていたのである。正しい切り方、正しい左手の添え方。すべてこの頃に学んだものだ。
盆の休みには、父は決まって餃子を作った。
父の餃子は白菜ではなくキャベツである。父いわく、白菜は水が多くて餃子には不向きなのだという。そしてタマネギと、ニラ。これを2本の包丁を両手で持ってリズムよく叩くように切り続ける。狭い台所を埋め尽くすほど大きいまな板。その音が祭りのお囃子のように聴こえて、僕は好きだった。行水もできそうな業務用のボウルがあって、これに山盛りになるほどの野菜を切った。
これがあまりに楽しそうなので、僕も父にせがんで2本の包丁を借りてまな板を叩くのだが、どうも父のように良い音が出ない。野菜が切れているのかどうかも分からない。結局、諦めて、とんとんとんと音の鳴る父の背中を眺め続けていたのである。
すり下ろしたショウガとニンニクとごま油の匂いが漂ってくると、そろそろゴールが近いことがわかる。ひき肉とともに野菜が練り上げられていく。素晴らしい音楽作品はスコアを見ただけで美しいのがわかるように、この匂いだけで、美味しい餃子であることがわかるのであった。
父の餃子の「ひだ」は芸術的であった。小麦粉を溶いた水をのりにして、あっという間にひだを作って餃子を閉じていく。僕は何度真似しても出来なかった。今では少しはひだを作れるようになったが、とても父のひだには敵わない。我が家には餃子が50個くらいは並べられるだろう大きな餃子鍋もあって、これにラードを溶かして焼いた。水と油が戦って、蒸気が木の蓋を伝って部屋に充満する。ぱりぱりと音を立てて口の中で崩れ落ちる皮を想像しては、腹と背中の皮がくっつくのである。
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父は若い頃、新宿の中華料理店で働いていた。だからほんとうに、本物のプロの仕事であった。なんでも出来る父だったので、あっという間に、その店の主人よりも上手く餃子が作れるようになってしまった。家をキレイに保つ父だったから、身だしなみもまたキレイに整えていて、客の人気も高かったという。これがどうやら主人には面白くなかったらしく、夜、店でひとり野菜を切っていて、まな板に包丁を置いた瞬間に「てめえ刃物を俺に向けやがったな」と因縁をつけられたそうだ。てめえこそ何言ってやがんでい、と応酬し、そのまま店を飛び出したそうだ。
僕は、料理上手と世渡り下手の遺伝子を、父から強く受け継いだ。
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「誌面の写真をカラーで見たかった」という方のご要望に応じ、かるく一文を添えてレシピ集を月一回、ブログに載せようと思っています。とは言え次回はぬか漬け。レシピもなにもあったものではないので、悩ましいです。
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「誌面の写真をカラーで見たかった」という方のご要望に応じ、かるく一文を添えてレシピ集を月一回、ブログに載せようと思っています。とは言え次回はぬか漬け。レシピもなにもあったものではないので、悩ましいです。
【餃子のつくりかた】
キャベツ 半1個
タマネギ 大1個
ニラ 1束
ニンニク ひとかけ
ショウガ ひとかけ
豚ひき肉 中1パック
餃子の皮 適宜
小麦粉 少々
水 適宜
※下味
しょう油 大さじ1
ごま油 大さじ1
ラード 大さじ1
うま味調味料 少々
(1)キャベツ、タマネギ、ニラをみじん切りにする。2本の包丁を使ってとにかく細かく切る。
(2)餡を作る。みじん切りにした野菜に下味の調味料を入れ、ニンニクとショウガをすり下ろし、加え、白っぽくなるまで練り上げる。
(3)餡を皮に包む。小麦粉を溶かした水をのりにして閉じる。ひだが入れられれば格好良いが、大事なのは肉汁を閉じ込めることなので、無理はしないこと。
(4)餃子鍋またはフライパンにラードを溶かし、餃子を並べ、中火で少々焼く。コップ1杯程度の水を入れ、蓋をし、5分程度蒸し焼きにする。火は弱火に落とす。
(5)蓋をとり、水気を飛ばして軽く焦げ目をつける。フライ返しで餃子をはがし、皿に盛る。
(6)余った餃子は冷凍が可能。凍ったまま焼ける。