――この語を説きたもう時、会の中に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の五千人等ありて、即ち座より起ちて仏を礼して退けり。所以は如何。この輩は罪の根深重、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。(法華経)
むかし、僕はパチンコ屋にいた。
お世辞にもスタイリッシュとは言えないオレンジ色の制服を着て、左耳にはインカムを嵌め、何万というパチンコ玉のカチカチとぶつかり合う音を聴きながら、狭い通路の真ん中に立っていた。どうしてそんなところに立っていたのか。もちろん、お金を稼ぐためだった。
19歳の頃に書いた曲で初めて賞を取って以来、僕は音楽を書き続けてきた。が、自転車操業は長く続かない。音楽史上最も偉大な作曲家の顔をして、自分を理解しようとしない世間の低俗さを嘆きに嘆いた。が、そんなことをしても腹は膨れない。働くしかなかった。たまたま目にした求人に電話し、はじめて履歴書を書き、はじめて面接を受けたのも、すべて、お金を稼ぐためだった。
パチンコのことなど何も知らない。当たると玉が出てくるらしい。それくらいのことしか分からない。正直にそう言っても採用してくれるのだから、世界は優しい。しかも研修中の身でありながら、「機械に強そう」というレッテルを貼られ、管理者用の鍵を預かることになった。僕の登用と前後して責任者が不慮の事故に遭い入院したためだ。10年20年と活動しても評価の定まらない作曲界との何という違い。しかし、機械に強いはずの僕はタイムカードの押し方を知らなかった。
新しい環境で生活するには言語を覚えることである。保留、掛留、倚音、転調、V度調属九。そんな言葉はもう何の役にも立たない。必要なのは、確変、時短、等価交換、ドル箱、ゴト師、これらの言葉だ。それから、どんなに物珍しい風習を見ても驚かないこと。新台に入れ替えた朝には、どこからか見たことのない媼がやってきて、店内の床に小豆や大豆を黙々と撒いていく。節分と同じく、一種の験担ぎなのだろう。撒かれた豆は開店までに掃除しなければならない。
朝の掃除が終わる頃には、その地域に住まう者たちが続々と店の前に並びはじめる。おはようございますと挨拶しながらひとりひとりの整理券を確認する。が、誰もが素直に応じてくれるとは限らない。日本人男性の名前としか解釈できない会員カードを「これ、わたしの名前よ」と差し出してくるフィリピン人妻もいれば、「おめえ、あたしの名前も知らねえのか?」と凄んでくる婆もいる。「なんだ新入りか。店長に訊いてこい。」…彼女は影で野村沙知代とあだ名されていた。
客が席に着くと、当たり始めるまでしばらく暇だ。店が違えば風景も違うのだろうが、僕の勤めた埼玉の小さな店は少しうるさい養老院のようなものだった。大当たりに興奮してコーヒーをこぼす老人。カネを使い切ったのに気付かず死んだように空打ちし続ける老人。ものの一時間と経たない間に、野村沙知代は脱いだ靴を右手に握って「こんな台なんざブッ壊してやろうかこの野郎!」と、台の中の八代亜紀に向かって叫び始める。
スロットコーナーではひとりのマダムが黙々と打ち続けている。鋭角的で小さな顔に華奢な身体、只者ではない服装のセンス、少し鼻にかかった声、鳥の巣のような髪型、時折りブルブルと振られる頭。常連の彼女は僕の大学時代の恩師と瓜二つだった。電卓片手にバルトークを分析しているはずの人が、咥えタバコの灰をぼろぼろと床に落としながらスロットを打ち続けている。ビッグ・ボーナスを引いたときの彼女の満面の笑みは口角の上がり方まで師匠そっくりで、妙な気分だった。
02年の日韓共催サッカー・ワールドカップ以降、にわかに、我が国では「嫌韓」という潮流が生まれようとしていた。当時は韓国のほうが歴史修正主義だったので、首脳たちの珍妙な発言をあげつらうのは簡単だった。市民の間ではパチンコが槍玉に挙げられた。朝鮮人の経営者たちが日本人からむしり取って国に上納しているのだろう、という噂が流れ始めた。ギャンブル依存症、それに伴う多重債務、警察の天下り、様々な社会問題も提起され始めた。
日本人のパチンコ店経営者が彼らを悪し様に言うのは、理解できる。同じ商圏内でシノギを削ってきた間柄だから。僕の勤めた店の店主は北朝鮮系の人のようだった。時折り、事務所にはハングル文字で書かれたファックスが届いていたし、店長と専務が口喧嘩するときも日本語ではなかった。
ただ、巷の噂とはかなり様子が異なっていたのは、彼らは人が良すぎて商売が下手だったところだ。常連客に悪い台を勧めるということが本能的にできないようだった。そうして、客が一人しかいないという状況に限って高設定の台に座られる。逆の場合もある。我らが野村沙知代は低設定の台に座ったときだけどういうわけか当たり続ける。ギャンブルという商売は経営するのも博打のようだ。事務所で頭を抱える釘師の姿をよく見かけた。給料が分割で支払われるのもしばしばだった。
台の入れ替えは営業時間を終えた深夜に行われる。数十台の大規模なリニューアルともなると、アルバイトが全員揃ってこれを行う。パチンコ台は20kg、スロット台は30kgもある。それら新しい台を、ひとつひとつ手作業で入れ替えていく。なかなかの重労働なのだ。
金属臭く、黒く煤けた手を洗いながら、制服を脱ぐ。アルバイトたちは極貧のバンドマン、売れない芸人、役者志望、漫画家志望、他に働くところのないシングルマザー、性格をこじらせた作曲家の顔に戻る。およそ外では交わり合う機会のないだろう面々が、世の中に横溢する「自己責任」の呪詛を静かに受け入れながら、24時間営業の牛丼屋に頭を並べた。
「あのね、千円使ってみたの。」
「毎度ありがとうございます。」
「出てこなかったの。なんでかしら?」
「何ででしょうねえ。」
「やっぱり千円じゃ出ないのかしら。」
「千円で出るときもあるんですけどねえ。」
「美人には釘が厳しいのかしら?」
マンションを経営しているというご婦人を裏口から見送る。いかにも路地裏という小道には昭和臭いおでん屋、商売っ気のない魚屋、おしゃれと名の付く婦人洋品店などが並んでいる。酒屋の店先では年金ぐらしの老人たちがビールケースを椅子にして、太陽の沈まないうちからワンカップを引っ掛けている。僕は心密かに、それを「オープンカフェ」と呼んでいた。
「ねえねえ、お兄ちゃん、きょうは出てる?」
「今日はあんまり出てないっぽいんですよ。」
「お兄ちゃんも大変だろうから、ちょっと打ってってあげるね。」
旦那がギャンブルでこさえた借金をギャンブルで返した上にマンションまで買ったという信じがたい経歴を持つこのご婦人は、盆も正月も関係なく毎日10万20万というカネを落としていく。珍しく4日ほど来なかったときがあったが、入院していたらしい。とあるアルバイトの子のミスに激昂して、命の次に大事なカネを奪い取るとは何事か、と、僕は彼女の愚痴を1時間近く聞いたこともあった。
昔の話を懐かしく思い出しているのは、この時代にあって、彼らがどうしているのかが気になったからだ。店の人間とケンカして、会員カードをカウンターのハサミで切り裂いて、翌日からタクシーに乗って別の街のパチンコ屋に毎日通った、などという、どうしてもお金を使いたくて仕方のない、有閑を持て余している老人がいる。閉まってない店があると聞けば、たしかにそこに行くのだろう。それ自体は、もちろん、褒められたことではないが、彼ら彼女らの行動原理は、長らく観察してきた僕には理解できるところがある。僕だって玉で遊ぶ人間だ。パチンコの玉か音符の玉の違いだ。
そして、その店には、その頃の僕が勤めているかもしれない。極貧のバンドマンが、売れない芸人が、役者志望や漫画家志望、他に働くところのないシングルマザーが、いるかもしれない。買った負けたと一喜一憂する老人たちの世話をして、子供の給食代にしているかもしれない。怖いだろう。この世の中の現状を理解していればいるほど、そうだろう。でも、どうにもならない。世の中の呪詛を静かに受け入れながら、働くしかない。
僕が店を去る前夜、我らが野村沙知代氏と道端でばったり会った。
「おまえがいなくなったら、あの店、どうなるんやろなあ。」
と、寂しそうな顔をした。まもなく潰れることになるとは僕も予想していなかった。
「あたしは口が悪いだけだから、気にするんじゃないよ。」
それはすでに知っていた。根っからのギャンブラーで気性も荒いが、心の中の奥のほうに乙女心が眠っている、そんな人だ。彼女と会えなくなるのは僕も寂しかった。
「すみません…。」
「なにやってんだか知らねえけど、おまえにも人生があるんだろ。頑張れよな。ところでおまえ彼女はいるのか。うちの娘なんか、どうや?」
それだけは丁重にお断りした。
お世辞にもスタイリッシュとは言えないオレンジ色の制服を着て、左耳にはインカムを嵌め、何万というパチンコ玉のカチカチとぶつかり合う音を聴きながら、狭い通路の真ん中に立っていた。どうしてそんなところに立っていたのか。もちろん、お金を稼ぐためだった。
19歳の頃に書いた曲で初めて賞を取って以来、僕は音楽を書き続けてきた。が、自転車操業は長く続かない。音楽史上最も偉大な作曲家の顔をして、自分を理解しようとしない世間の低俗さを嘆きに嘆いた。が、そんなことをしても腹は膨れない。働くしかなかった。たまたま目にした求人に電話し、はじめて履歴書を書き、はじめて面接を受けたのも、すべて、お金を稼ぐためだった。
パチンコのことなど何も知らない。当たると玉が出てくるらしい。それくらいのことしか分からない。正直にそう言っても採用してくれるのだから、世界は優しい。しかも研修中の身でありながら、「機械に強そう」というレッテルを貼られ、管理者用の鍵を預かることになった。僕の登用と前後して責任者が不慮の事故に遭い入院したためだ。10年20年と活動しても評価の定まらない作曲界との何という違い。しかし、機械に強いはずの僕はタイムカードの押し方を知らなかった。
新しい環境で生活するには言語を覚えることである。保留、掛留、倚音、転調、V度調属九。そんな言葉はもう何の役にも立たない。必要なのは、確変、時短、等価交換、ドル箱、ゴト師、これらの言葉だ。それから、どんなに物珍しい風習を見ても驚かないこと。新台に入れ替えた朝には、どこからか見たことのない媼がやってきて、店内の床に小豆や大豆を黙々と撒いていく。節分と同じく、一種の験担ぎなのだろう。撒かれた豆は開店までに掃除しなければならない。
朝の掃除が終わる頃には、その地域に住まう者たちが続々と店の前に並びはじめる。おはようございますと挨拶しながらひとりひとりの整理券を確認する。が、誰もが素直に応じてくれるとは限らない。日本人男性の名前としか解釈できない会員カードを「これ、わたしの名前よ」と差し出してくるフィリピン人妻もいれば、「おめえ、あたしの名前も知らねえのか?」と凄んでくる婆もいる。「なんだ新入りか。店長に訊いてこい。」…彼女は影で野村沙知代とあだ名されていた。
――私には名刺もない、と西村は思った。不良少年の仲間では、自分の情人を持たないことは、その男の劣性を意味する。成年に達して名刺を持たない迂闊さは、おそらく、その人間の決定的な貧困を意味するのだろう。(『憂鬱なる党派』高橋和巳)
客が席に着くと、当たり始めるまでしばらく暇だ。店が違えば風景も違うのだろうが、僕の勤めた埼玉の小さな店は少しうるさい養老院のようなものだった。大当たりに興奮してコーヒーをこぼす老人。カネを使い切ったのに気付かず死んだように空打ちし続ける老人。ものの一時間と経たない間に、野村沙知代は脱いだ靴を右手に握って「こんな台なんざブッ壊してやろうかこの野郎!」と、台の中の八代亜紀に向かって叫び始める。
スロットコーナーではひとりのマダムが黙々と打ち続けている。鋭角的で小さな顔に華奢な身体、只者ではない服装のセンス、少し鼻にかかった声、鳥の巣のような髪型、時折りブルブルと振られる頭。常連の彼女は僕の大学時代の恩師と瓜二つだった。電卓片手にバルトークを分析しているはずの人が、咥えタバコの灰をぼろぼろと床に落としながらスロットを打ち続けている。ビッグ・ボーナスを引いたときの彼女の満面の笑みは口角の上がり方まで師匠そっくりで、妙な気分だった。
02年の日韓共催サッカー・ワールドカップ以降、にわかに、我が国では「嫌韓」という潮流が生まれようとしていた。当時は韓国のほうが歴史修正主義だったので、首脳たちの珍妙な発言をあげつらうのは簡単だった。市民の間ではパチンコが槍玉に挙げられた。朝鮮人の経営者たちが日本人からむしり取って国に上納しているのだろう、という噂が流れ始めた。ギャンブル依存症、それに伴う多重債務、警察の天下り、様々な社会問題も提起され始めた。
日本人のパチンコ店経営者が彼らを悪し様に言うのは、理解できる。同じ商圏内でシノギを削ってきた間柄だから。僕の勤めた店の店主は北朝鮮系の人のようだった。時折り、事務所にはハングル文字で書かれたファックスが届いていたし、店長と専務が口喧嘩するときも日本語ではなかった。
ただ、巷の噂とはかなり様子が異なっていたのは、彼らは人が良すぎて商売が下手だったところだ。常連客に悪い台を勧めるということが本能的にできないようだった。そうして、客が一人しかいないという状況に限って高設定の台に座られる。逆の場合もある。我らが野村沙知代は低設定の台に座ったときだけどういうわけか当たり続ける。ギャンブルという商売は経営するのも博打のようだ。事務所で頭を抱える釘師の姿をよく見かけた。給料が分割で支払われるのもしばしばだった。
台の入れ替えは営業時間を終えた深夜に行われる。数十台の大規模なリニューアルともなると、アルバイトが全員揃ってこれを行う。パチンコ台は20kg、スロット台は30kgもある。それら新しい台を、ひとつひとつ手作業で入れ替えていく。なかなかの重労働なのだ。
金属臭く、黒く煤けた手を洗いながら、制服を脱ぐ。アルバイトたちは極貧のバンドマン、売れない芸人、役者志望、漫画家志望、他に働くところのないシングルマザー、性格をこじらせた作曲家の顔に戻る。およそ外では交わり合う機会のないだろう面々が、世の中に横溢する「自己責任」の呪詛を静かに受け入れながら、24時間営業の牛丼屋に頭を並べた。
「あのね、千円使ってみたの。」
「毎度ありがとうございます。」
「出てこなかったの。なんでかしら?」
「何ででしょうねえ。」
「やっぱり千円じゃ出ないのかしら。」
「千円で出るときもあるんですけどねえ。」
「美人には釘が厳しいのかしら?」
マンションを経営しているというご婦人を裏口から見送る。いかにも路地裏という小道には昭和臭いおでん屋、商売っ気のない魚屋、おしゃれと名の付く婦人洋品店などが並んでいる。酒屋の店先では年金ぐらしの老人たちがビールケースを椅子にして、太陽の沈まないうちからワンカップを引っ掛けている。僕は心密かに、それを「オープンカフェ」と呼んでいた。
「ねえねえ、お兄ちゃん、きょうは出てる?」
「今日はあんまり出てないっぽいんですよ。」
「お兄ちゃんも大変だろうから、ちょっと打ってってあげるね。」
旦那がギャンブルでこさえた借金をギャンブルで返した上にマンションまで買ったという信じがたい経歴を持つこのご婦人は、盆も正月も関係なく毎日10万20万というカネを落としていく。珍しく4日ほど来なかったときがあったが、入院していたらしい。とあるアルバイトの子のミスに激昂して、命の次に大事なカネを奪い取るとは何事か、と、僕は彼女の愚痴を1時間近く聞いたこともあった。
昔の話を懐かしく思い出しているのは、この時代にあって、彼らがどうしているのかが気になったからだ。店の人間とケンカして、会員カードをカウンターのハサミで切り裂いて、翌日からタクシーに乗って別の街のパチンコ屋に毎日通った、などという、どうしてもお金を使いたくて仕方のない、有閑を持て余している老人がいる。閉まってない店があると聞けば、たしかにそこに行くのだろう。それ自体は、もちろん、褒められたことではないが、彼ら彼女らの行動原理は、長らく観察してきた僕には理解できるところがある。僕だって玉で遊ぶ人間だ。パチンコの玉か音符の玉の違いだ。
そして、その店には、その頃の僕が勤めているかもしれない。極貧のバンドマンが、売れない芸人が、役者志望や漫画家志望、他に働くところのないシングルマザーが、いるかもしれない。買った負けたと一喜一憂する老人たちの世話をして、子供の給食代にしているかもしれない。怖いだろう。この世の中の現状を理解していればいるほど、そうだろう。でも、どうにもならない。世の中の呪詛を静かに受け入れながら、働くしかない。
僕が店を去る前夜、我らが野村沙知代氏と道端でばったり会った。
「おまえがいなくなったら、あの店、どうなるんやろなあ。」
と、寂しそうな顔をした。まもなく潰れることになるとは僕も予想していなかった。
「あたしは口が悪いだけだから、気にするんじゃないよ。」
それはすでに知っていた。根っからのギャンブラーで気性も荒いが、心の中の奥のほうに乙女心が眠っている、そんな人だ。彼女と会えなくなるのは僕も寂しかった。
「すみません…。」
「なにやってんだか知らねえけど、おまえにも人生があるんだろ。頑張れよな。ところでおまえ彼女はいるのか。うちの娘なんか、どうや?」
それだけは丁重にお断りした。