2020年4月12日日曜日

総理の微笑、空白の権力

 米軍の言葉に「Order, Counter-order, and Disorder」というものがあるそうだ。命令を出したあと、それとは反対の命令を出すと、現場は混乱する。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)をめぐる我が国の3月以降の対応は、この言葉に尽きると思う。

 例えば学校の休校。2月27日の新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で全国の小中高校に3月2日から春休みまでの臨時休校を文科省を押し切る形で安倍晋三総理が要請。これが激しい反発を呼ぶとすぐさま「実際に休校するかは学校や地方自治体の判断に任せる」と態度を改めた。もともと休校は自治体の判断に依るのだから、いたずらに現場を混乱させただけだった。
 我々の業界もそうだ。2月26日に総理からこのような要請があった。「多数の方が集まるような全国的なスポーツ、文化イベント等については、大規模な感染リスクがあることを勘案し、今後2週間は、中止、延期又は規模縮小等の対応を要請することといたします。」これには「全国で一律の自粛要請はせず、地域の感染状況に応じて主催者が判断してほしい(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議・3月19日)」という但し書きが付いている。

 いつも自分たちを応援してくれるお客さんたちの健康が心配には違いない。何の法的根拠も無いことに戸惑いつつも、「個別の補償はしない」という言葉に内心憤りつつも、丸々自腹で赤字を被って、なかには億という単位の金額を失いながらも、様々なジャンルの数多くのアーティストたちが政府の「自粛」の「要請」に大人しく従った。
 その代わり我々は強く要望した。自分たちを応援してくれるお客さんたちとは、つまり、常日頃まじめに社会で働く人々である。彼らを助けるためにも、我々が自粛している間に医療態勢、補償の態勢を整えて欲しい。だが今日もなお、感染拡大の収まる気配もなければ、我々のみならず誰の生活も補償されそうにない。466億円かかった恩賜の布マスクが世帯に2枚ずつ下賜されるのみである。我々の断腸の思いは、ものの見事に無駄にされている。

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 あれから1ヶ月が経ち、遅きに失するとは言えようやく、新型インフル等特措法による緊急事態宣言が4月7日に発令された。僕も総理会見を見ていたが、肝心の内容(感傷的な表現も含めて、ある程度、想像できるものだったから)よりも質疑応答での日経記者とのやりとりに目を疑った。「緊急事態宣言の効力は何時を目処に有効になるのか」という質問に対し「…何時?『何時』ですか?えっと、官報に載った段階かな?」と後ろを向き(動画では聞き取りづらいが、おそらくは)官僚がそれに答えたあとの、少しはにかむように笑った反応にだ。
 日本に生きていれば、あの微笑には見覚えがある。身に覚えもある。
 ご存知ないのか、と思った。緊急事態宣言の有効になるタイミングはすなわち都道府県知事の動き始めるタイミングなのだから、責任者が知らないのは大問題である。が、たとえ知らなくても「正式には官報を掲示する時間ですが、少なくとも今夜中にできるよう対処しています」とでも答えてくれたら驚きはしなかっただろう。しかし総理は笑ったのだ。記者会見の場で。これに驚いた。

 僕はある伝聞を思い出していた。政治評論家の森田実氏が書いていたのを読んだことがあるのみで、詳報されているわけではないから事実かどうかは知らないが、2012年、尖閣諸島問題が浮上した頃、野田佳彦前総理が時の温家宝総理に「日本は今後、外交ではなく軍事で問題を解決するつもりか」と問われ、それに対し、野田前総理は誤魔化すように微笑んだというのである。
 これが仮に事実なら、相手が日本人ならば「考えていない」というメッセージを汲み取れるが、中国人には「考えている」というメッセージにしかなりようがない。以降、両国の関係が悪化の一途を辿ったことを思えば、事実でも不思議ではない。

 ――釈迦が蓮の花をひねり、摩訶迦葉ひとり破顔した。
 どうしても言葉に頼ることのできないコミュニケーションというものは確かにある。音楽の人間はそれを肌身で知っている。今日の日本においてもしばしば言葉は省かれる。ただそれは、拈華微笑のように言葉では伝えられないことを伝えようというのではない。言葉にすることを厭うているだけ。怠慢さというよりも、むしろ「分かって当然だ」と思い込む傲慢さによって。そうしてこの10年間、人々は他人の顔色を窺う動作を「空気を読む」と表現し、あまつさえ美徳にすらしてきた。

 総理の微笑。あれはまさに、空気を読んでいる最中の顔だ。

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 「8割おじさん」こと専門家会議の西浦博教授のインタビューに、彼の主張していた「8割」が「7割から8割」へと表現が変更された経緯が語られている。これは大変合点の行くものだった。いったい誰がどのような根拠で言ったことなのか疑問だったが、要するに誰も、総理すらも、決断していない。なんとなく決まっていったということが良くわかる。

不思議なことに「基本再生産数が2.5として、医療機関や性風俗のことを考えると、80%減でないと2週間で減らない」というシミュレーションの資料を作っていたのですが、私の知らないところで諮問委員会の資料の数値が書き換えられていたのです。

 総理は、おそらく人の意見を聞きすぎる人なのだろう。僕の意図が誤解なく伝わるよう譬え話を付け加えるならば、3.11、東電が福島第一原発からの撤退を打診したとき菅直人元首相は激昂したが、これがもし安倍総理なら、そうですか、と受け入れてしまっただろう。総理の郷里、幕末の長州藩主「そうせい候」こと毛利敬親のような意味で「人の意見を聞きすぎる人」である。
 おそらく、総理は総理なりの善意で、専門家会議の言うことと省庁・財界の言うことの中間を採っているのだろう。あちらを立てればこちらが立たずの道理から、それぞれ相違する意見を聞き、調整するという「民主主義」に則って、まあまあここはこれくらいでと妥協をし、妥協させる。2人や3人の話し合いなら別に良いが、これが一億人の住まう国の単位ともなると、あれもこれもと総花的になり、そもそもの目的がわからなくなっていく。
 みんなの意見を聞き、それぞれの良いところを取り入れて、できる範囲のことをできるだけやっているんだ。総理はそう思っていることだろう。本人の意識のなかに、彼への批判者が言うような「独裁」という意識はまったく無いに違いない。むしろ、戦後日本にもうひとりいる非常時の宰相、菅元首相のほうが、私権を一方的に制限する「独裁的」な決断を下してきたとすら言える。
 まこと空気を読む国にふさわしい宰相の御振る舞い。みんな仲良くゆるふわ危機対応。問題は、それでは多くの人間が死ぬのを免れ得ないという恐ろしい未来のあることだ。

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 後藤田正晴が中曽根康弘擁立に際し「ボロ神輿だからこそ担ぐんだ」と答えたというエピソードがあったと記憶するが、いま官邸の神輿に鎮座ましましているのは巨大な空白ではないのか。ボロですらない。空や無の類である。可愛がってもらえさえすれば自分の意見が難なく通るのだから、部下にとって都合の良い上司だろう。誰にとっても都合の良い空白だからこそ(この場合の「誰にとっても」は反対者も含まれている)防衛省日報問題、森友加計問題、桜を見る会問題と様々な不祥事があってもなお、低きに溜まりきった水のように、政局も動かなかったのではないか。
 13年ほど前、参院選で歴史的な惨敗を喫して所信を表明しながら総辞職した彼がなぜ再び戻ってきたのか、長らく疑問だったが、なかなかどうして議会制民主主義とは確かに社会の写し鏡をトップに据えるものなのかと考えると合点が行く。我々は良いシステムを持っている。先人の知恵に感謝しよう。ただし、この世界的な生死に関わる危機に瀕して、いっそう根深い問題を突きつけられているということでもある。我々で撒いた種は我々で刈り取らねばならないのは道理とは言え、あまりに厳しい現実を直視せねばならないその瞬間が、もう目の前に迫っている。

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 以上、ノンポリを決め込むと作品を利用されるリスクがあるという噂を耳にしたので、僕の作品が利用されることは無いとは思いますけど、念のため、自分の立場を改めて記しておきました。僕は総理が官房長官時代、ヒューザー小嶋進会長の証人喚問で彼の名前が出てきたときから「ないわ」と思い続けてきましたことを付け加えておきます。