2013年12月7日土曜日

「ふつう」

 1ページ目は参考書のように色を使い分け、きれいにペンで書かれている。
 2ページ目は早くも黒一色になり、3ページ目にはペンが鉛筆になり、文が単語になり、落書きされるようになり、6ページ目には真っ白になる。僕の中学生のころのノートは、だいたいそのようなものだった。一度も一冊を使い切ったためしがないのだ。高校生になったら改善されるどころか、もう最初から最後まで真っ白で、たまにやってくるノートの提出は最後までしらばっくれた。授業は寝て過ごしたか、ずっと窓の外を見ていたか、教科書の先のほうをひとりで読んでいた。成績は良いほうだったが、学年で一番というほどではなかった。期末テストはだいたい10分前後で終わらせて、残りの時間は机に突っ伏して、後ろのHに答案を見せるような体勢で、寝た。見直しはしなかった。かわいそうに、彼は僕と同じミスをして、カンニングが先生にバレた。
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 宿題をした記憶がほとんどない。
 小学生時代。夏休みの工作に市販のジグソーパズルをそのまま提出したことがあった。登校日には計算ドリルの答えが配られる。その答えを書き写すことさえせず、提出しなかった。自由研究は6年の一回だけ。ただしこのときは大きな模造紙5枚ほどに、小さな文字を呆れるほど詰め込んだ。それまで一回もやらなかった。「宿題を持ってくるのを忘れました。明日持ってきます」を1ヶ月言い続ければ、そのうち先生も言わなくなることを僕は知っていた。読書感想文を書かなかったどころか、読書をしなかった。
 母に宿題をしろと言われるのがあまりにも嫌で、2時間ほど「家出」をしたこともあった。4年のころ、あまりにも忘れ物がひどいので、先生が両親宛のメモ書きを僕に渡した。そのメモ書きをじっと見ていた僕は、余白部分が気になり、文字を残してはさみで切り取って、父に怒られた。
  入学したての頃まで、僕は裏声以外の声の出し方を知らなかった。中学になる直前までおねしょに悩まされた。「林間学校」を拒絶した。恐る恐る参加した修学旅行で朝、さらさらとした布団をさすったときの安堵といったら、ない。はじめて読んだ漫画は大学に入ってからのうすた京介。保育園のころは漢和辞典を毎日ひろげて、薔薇やら葡萄やら鬱とやらを自慢気に書いては周りの園児の顰蹙を買い、小学の漢字のプリントを旧字体で埋めるようなことをした。少しは漫画を読んだらどうだと、親に雑誌を買い与えられもしたが、かたくなに読まなかった。
 「津軽海峡冬景色」をコブシをきかせて教室で歌ってみたり、男が化粧をしないのがどうしても不思議で母の口紅を塗って学校に行ってみたり、国語の時間の朗読で、物語のキャラクターの声色をすべて演じ分けたりした。そんな6歳。クラス中に笑われたが、僕は、自分はとても「ふつう」な子供だと思っていた。
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 さすがに今は、「ふつう」に、僕は変な子供だったと自分でも思う。
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 アイヴズを聴いて作曲家になりたいなどと突然言い出した15歳は、ヘ音記号のどこが「ド」なのかすら知らなかった。頼むからピアノを習わせてくれと親にせがんで通い始めた先生に、頼むから音大に行きたいなんて言わないでくれと言われ、カチンときて、ドビュッシーの「月の光」やら、クラス合唱の大地讃頌やら、コンコード・ソナタやらを弾きたがり、哀れな「こどものバイエル」は放られて、レッスンは1年で辞めて、せっかく入れた音大でも和声の宿題は当然やらず、レッスンをさぼり、学長宛に抗議声明なんかを書きつけて送り、1年半で辞めて、賞が取れるようになったころの作風も1年たたずに放り投げ、いろいろと気に食わないことがあったから某団体も辞めて、食えなかったころに入ったバイトも、会社も、それぞれ2年で辞めて。
 さよならだけが人生の35年間。僕は「ふつう」に振舞ってきたつもりだったが、まったく「ふつう」になれなかった。ほとほと、自分の扱いに困り果ててきた。
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  自分らしく、などと、気軽に言うなと。僕はいつもこの言葉に腹が立っていた。僕の中のなにかの「虫」が、いつも自分の足を引っ張ってきた。正直になればなるほど、この虫がざわざわと蠢く。そうして気がつくと退学届や脱会届や辞表や絶縁状を叩きつけていて、そのときにはすっきりする。気持ちが晴れ晴れとする。空高く、心地の良い風が吹く。やってやったと思う。あとで困ったことになる。僕の場合、自分が自分であることが、忍耐の筆頭だった。人の顔を見ていると鼻をつまみたくなるような性格の僕が社会的に生活するためには、自分らしくしてはならなかった。
 会社を辞めるぐらいならば、次を探せば良い。困ると言っても生活に困るくらいだ。そんなことには慣れている。しかしこれが人間関係ともなると、次は探せない。だから僕は人とのつきあいに細心の注意を払って、気を遣ってきた。これでも気を遣ってきたのだが、結局、人様から見て全く遣えておらず、そうして自分と世間とのあいだに生じる軋轢が、正直、きつかった。相手が限界に達するか僕が暴発するかのいずれかで断絶を迎える関係がいくつもあった。
 僕は人の邪魔になりたくなかった。できるだけ役に立つ人間でありたかった。しかし、生きている以上、どうしても人の邪魔をしてしまうし、思うように役に立てないこともある。そうして僕がねちねちと自分を責めるとき、実は相手のことも同じ力で同じように責めていることになっているらしいことに気付いたのは、つい最近。子供のころから恋い焦がれてきた「ふつう」の人生は、遠い。
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 宮使えの御奉公をしていた頃の同僚の女の子がシンガーソングライターの活動をはじめて、彼女のライヴを見に行った。いろいろと実際的なアドバイスをしたい部分もあったけれども、それより何より、輝いていて、まっすぐに夢を語っていて、まぶしかった。彼女の声を聴いて、一冊のノートも使い切れないような僕が、楽譜であれば一応最後まで書き切れることに、改めて思い至った。寝ることにすら飽きてしまう僕は、まだ、音楽に飽きていない。これは希望だ。
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 来年は3回目の年男。人生80年だとしたら、そろそろ折り返し地点。
 というよりも、よくまだ死んでないな、という想いの方が強いのだが。気を遣っても遣えてないなら、最初から気を遣わなければ良いのではないかと思った。少なくとも僕が暴発することは避けられる。だからこの先、僕はどんな場所でも自分らしく振る舞うことにしようと思う。人に迷惑をかけても平然としていられるようになろうと思う。僕にとってもっとも「ふつう」な生活をしようと思う。
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 ありがとうございます。
 ごめんなさい。
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 その場合、僕は礼と謝罪を「ふつう」に忘れる可能性があるので、今後皆さんに対してしでかすかもしれない迷惑に対し、前もってこの2つの言葉を心から伝えておく。だから、「あいつは礼すら言えないやつだ」「謝りもしない失礼なやつだ」という批判には一切耳を貸さないことを、免責として宣言しておく。