2013年11月13日水曜日

混淆と洗練、ミヨーと中南米

 ミヨーは難しい作曲家であるらしい。

 ふたつ以上の調性を同時に鳴らす書法を多調性・複調性などと言い、今日、ミヨーを思い出す際には必ずセットで語られる言葉である。なぜなら、彼はこの小難しそうな技法の開祖と言われているから。難しそうなのは技法だけではなく、例えば今日のオーボエのためのソナチネは、文字通りに、演奏が不可能なほどに難しい。無理を承知で無理を書いたような楽譜に奏者は必死の思いで立ち向かう。なのに、出てくる音楽がちっとも難しそうに聞こえてくれない。深刻そうな曲なら苦悶の表情を抑えずに済むのに、ぐっと堪えてそれを隠さなければならない。見かけによらず、なかなかの煉獄なのである。

 近代フランスの斬新な和声が、中南米のリズムと混淆するミヨー。

 調性だけでなく、彼は何でも混ぜてしまう。そうして、もっともげなことを考えていそうな顔をチラリとすら見せることもなく、重そうな体と不自由をした足で、いつでも浮き足立っている。

 観光案内のようにリオデジャネイロ市内の町・地域の名を各曲に冠した「ブラジルの郷愁」にも、シンコペーションの楽しげな2拍子、4拍子の曲が揃っている。これらのリズムはブラジルに限定的なものというよりも、むしろ”汎中南米”的と言えるもので、具体的にはハバネラ、またはミロンガなどと呼ばれている。ハバネラは「ハバナ風」の名の通りキューバで生まれ育った音楽で、アルゼンチンではタンゴの原型となったものだが、しかし実は古いフランスの舞曲を先祖に持っている。ビゼーやサン=サーンスがこのリズムとタイトルとで書いた魅惑的な音楽を僕たちは忘れられないが、これはつまり逆輸入であると言える。ミヨーの場合も、この伝統に重ね合わせて見ることができるだろう。

 ピアノのための舞踏組曲として編まれた「リベルタドーラ」の原曲、歌劇「ポリヴァール」も、ミヨーの「中南米三部作」と呼ばれているものだ。だが、あまりに中南米そのものをキーワードに据えすぎると、彼の大事なメッセージを見誤ってしまう。トルコ色に染められた「後宮からの誘拐」の作者モーツァルトも、トルコ人ではないし、トルコのことだけを書きたかったわけではない。

 そもそも中南米の音楽は、植民地時代に輸入されたヨーロッパの音楽と、元々の住人たちの音楽と、アフリカ系の黒人たちの音楽と、様々な音楽が混淆し、長い時間を経て独自に発展、洗練されていったものだ。良いものはなんでも取り込んでしまおうという人々のおおらかさ、屈託のなさは、ミヨーの気に入ったに違いない。冒頭の多調も彼の発明なのではなく、バッハの楽譜のなかに二つの調が同時にあるのを彼が発見したからで、なれば、開祖はバッハである。新しい高価な絵の具を買った画家のような好奇心に沸き立つミヨーが、想像できる。

 混淆とは二者の対立ではない。さりとて協力でもない。ある日は真面目なことを言い、ある日は酒場で下卑た話をする。ある日は悪いことをして、ある日は教会で真摯に懺悔する。それを普通は性格の破綻と言わない。それが普通の人間である。そんな、いくつもの性格が入り混じった普通の人間のひとりひとりが、それぞれに好き勝手なことを言いながら入り混じって、社会に生活している。世界は一色ではない。一色ではないから、美しい。

 ミヨーは、僕たちを心から肯定してくれる作曲家なのだ。

(2013年10月25日「花房晴美 室内楽シリーズ パリ・音楽のアトリエ<第7集 ミヨーの夜会>」プログラムノート 於・東京文化会館小ホール)