銀幕という言葉を聞かなくなって、久しい。
ざらざらとささくれ立った六畳間。ときどき横顔を引っ叩かないと仕事をサボる足つき家具調ブラウン管で見るドラマも、確かに悪くはないけれど、映画館で観るスターは、何と言っても格別だった。歩いて、バスに揺られてたどり着く、木の床、べこべこの赤い椅子。真っ暗な客席のうしろから一本の光が照射され、フィルムに記録された遠い異国の日常が、僕たちの非日常となって、目の前の大きな白いスクリーンに映し出される。戦中派の父と一緒に観る男女のキスは、とても気まずい。
マーロン・ブランド、アル・パチーノ。そこにあのテーマが流れてくると、否が応でもマフィアとなる。そんな時代の映画音楽の立役者として、ニーノ・ロータの名前は、どうしても外せない。「ゴッドファーザー」の旋律は彼の名を知らぬ者の胸にも深く刻み込まれている。すでに数々の映画音楽で名声を博していたロータの元に舞い込んだこのハリウッドからの仕事は、ますます彼の地位を不動のものとした。
と同時に、彼の「本業」である仕事を、忘れさせた。
1911年、音楽一家に生まれ、ミラノ音楽院などで勉学に励み、ストラヴィンスキーなどとも親交を持っていたロータ。「本業はクラシックの作曲家であり、映画音楽は趣味だ」と、彼はわざわざ言わねばならなかった。ソ連ではショスタコーヴィチが、日本では芥川也寸志が映画のために書いていた時代。ロータもまた、交響曲やオペラ、数多くの室内楽作品を書いた作曲家であり、それらは近年再評価され、演奏会にとりあげられる機会も増えている。
でも、やはり映画なしに彼は語りきれない。質、量ともに他の作曲家を凌駕し、後の世代の映画への影響はあまりに大きい。「趣味」という言葉は様々に解釈されたが、しかし、愛の無い趣味なんて、ない。強く求められれば求められるほど、彼は多くの愛を映画に注いできたのである。
特に、彼とフェデリコ・フェリーニ監督との共同は映画史でも特異な位置を築いている。それはフェリーニ初の単独監督作品である52年「白い酋長」から79年「オーケストラ・リハーサル」に至るまで四半世紀近く続いた。この79年とはつまりロータの没年であり、彼の死によって仕方なく中断されたと言って良い。
「道」と「カビリアの夜」は二人の初期を代表する傑作。ないがしろにされ、捨てられる女。愚かでだらしなく、どうしようもない男。そんな人生の肯定、讃歌。痛切に生きる命に注がれるどこまでも優しいまなざしが、ロータのやわらかい筆と合致して、人々を号泣させた。
カンヌでパルム・ドールを獲た「甘い生活」で二人の共同はひとつの頂点に達したのち、妻ジュリエッタ・マシーナの演技やロータの音楽の力を頼り、フェリーニはますます独創的な映画を作った。「8 1/2(はっかにぶんのいち)」や「魂のジュリエッタ」のように、物語があってないような、古い道徳から自由な、からりと湿気のない、それでいて幻想的な世界。それはロータの性格にも合ったのだろう。彼の筆は(誤解を恐れず言えば、彼本業の作品よりも)ますます自由闊達になり、本来の個性がのびのびと足を伸ばしている。
両者の仕事は綿密な打ち合わせのうえに行われ、フェリーニはロータの音楽を必要とし、ロータはフェリーニの映画言語を理解した。芸術としての仕事をさせてもらえる環境は、ロータにとっても心地良いものであっただろう。
フランコ・ゼフィレッリ監督とは、元は舞台での出会いである。ゼフィレッリの舞台のために作曲された「じゃじゃ馬ならし」の音楽は、映画化に際してそのまま転用されている。この映画の成功を受け、二人は再びコンビを組んで、傑作「ロミオとジュリエット」を制作した。双方ともシェークスピアの戯曲。中世を意識したのか、ゼフィレッリの絵画的な色彩とも合い、ロータの筆は典雅である。
美男の代名詞アラン・ドロンの立ち姿と絡む感傷的なメロディの数々も忘れられない。「ヴェニスに死す」でも知られるルキノ・ヴィスコンティ監督の「若者のすべて」や、ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」が、それだ。ただ、日本での絶大な支持とは対照的に、彼自身はクレマンとの仕事を後悔していたという。映像が全て出来てから作曲させるクレマンの方法は、彼には不愉快だったかもしれない。
このような彼の姿勢は、むしろ古典のオペラ・オペレッタ作家に近いものを思わせる。イタリア人らしい職人技。プライドをかけた映画熱が、映画を知らない人までも涙させる美しい音楽へと昇華しているのだ。今宵は一ノ瀬、山田両氏そして三浦氏本人の編曲で、ロータの音世界を堪能する。僕たちのセピア色の思い出までもが、総天然色で蘇る。極上の贅沢な時間。そこに身を委ねるとき、僕たちは彼からひとつのメッセージを受け取ることだろう…「人生は祭りだ、共に生きよう」と。
(2013年9月8日 「三浦一馬 meets Nino Rota」 於・茅ヶ崎市民文化会館大ホール)