一気に全人類を救済しようと努めてはいけない。まず、せめて一人の人間でも救うように試みなさい。これははるかに困難なことだ。ほかの人を傷つけないようにして一人の人間を助けるというのは、たいへんむずかしいことである。信じられないほどむずかしい。それだからこそ、全人類を同時に救済したいという誘惑が出現するのである。だが、それにもかかわらず、その誘惑に乗ると、必然的に、人類の幸福のためには、少なくとも数億の人間を抹殺しなければならなくなる。もちろん、ばかばかしいことである。(『ショスタコーヴィチの証言』ソロモン・ヴォルコフ編/水野忠夫訳 1986・中公文庫)
もはや「偽書」として、読む人も少なくなったかもしれない。ショスタコーヴィチその人を研究するには役に立たないものになったかもしれない。が、それでも、若い時分に読んだこの本には、僕にとって大切な言葉が沢山あった。例えば「作曲家たるもの、せめて楽器のひとつは完璧に弾きこなせなければならない。ピアノでも、ヴァイオリンでも、(略)なんでもよい。それこそトライアングルだってかまわない」などは、あたかも自分で考えたことのように生徒に伝えたりもする。上に引いたような一文は僕の行動の規範にもなっている。実際、一人の人間を助けるというのは信じられないほど難しいことだ。この言葉をなぞって口にする資格が、僕にはいくらかあるのではないかと思っている。
本書には、スターリン時代におけるウクライナの吟遊詩人たちの処遇に関する記述もあった。街をうろうろ歩きながら、検閲の許可を受けていない歌を歌う盲人たち。盲目ゆえに書類を見せるわけにも、サインを求めるわけにもいかない。もっとも簡単で効率的な対処法として、何百という吟遊詩人たちが一か所に集められ、みな銃殺されたという。国家の「偉大な事業が進展中である」という理由で、ありとあらゆる繊細な音楽、詩、生きた歴史が、すべて無かったことにされた。ハルキフにはバンドゥーラ奏者の石碑が建っていると聞く。
僕の母は弱視なので、尚のこと、このエピソードには胸を抉られるような思いがした。が、この凄愴な物語を、僕はやはり、二度と繰り返してはならない人類の愚行の「物語」として読んでいた。ベルリンの壁の崩壊をテレビで見た世代だ。1991年8月のクーデターが瞬く間に鎮圧され、バルト三国が独立し、ウクライナの国民投票を経てソ連も崩壊した。社会科の地図帳に「独立国家共同体」と赤字で書き込んだ世代だ。「武力の脅威、不信、心理的・イデオロギー的な闘争は、もはや過去のものになった」というミハイル・ゴルバチョフの言葉に輝かしい21世紀を信じた。もちろん戦争はあった。湾岸戦争があった。ユーゴスラビア紛争があった。が、1999年にも8月がやってきたことに残念がるようなほっとするような表情を浮かべていた人々が祝祭の雰囲気を楽しんでいたミレニアム・イヤーの頃に、ワールドトレードセンタービルの崩壊を想像するのは難しかった。
* * *
スウェーデンに滞在していた今年1月のはじめ、日本ウクライナ芸術協会を主宰する澤田智恵氏から作曲の相談を受けた。曰く、日本とウクライナの国交樹立30周年を記念するコンサートのために、2挺のヴァイオリンのための協奏曲を書いてくれないだろうか。もし可能ならウクライナ初演では指揮も振ってくれると嬉しい、とのこと。ソリストを務める予定のオレグ・クリサ氏が僕の作品を高く評価してくれているとの話も伝わってきた。
光栄なことであるし、僕にとって初めての東欧である。夏の終わりくらいには書き終えられるかしら、あいさつ程度のロシア語でも許してくれるかしら、滞在中はどこを観光しようかしら、ごはんは美味しいかしら、お酒はやっぱり強いのかしら。そんなことを暢気に考えていた。そのとき耳に鳴り響いた嬉遊曲は、もう、今日の世界にふさわしくない。
そういえば、奇遇にもスウェーデンではいろいろな人とロシアについての話をしたのだった。海に阻まれた我が国とは違い、北欧の人々にとってロシアは生々しく隣り合っている。真剣に警戒し、アラームは定期的にテストされ、「ryssarna kommer(ロシアが来た)」という表現が慣用句のようにもジョークのようにも使われる。ロシアは脅威であり、いつの日か、ここか、あるいはどこかで、何かがあってもおかしくないという価値観は、静かに、しかし広く、立場を超えて市井に共有されていた。もっとも、その「いつの日か」が正味一か月後に迫っていると想像するのは難しかったが。
そのスウェーデンが国是を破りウクライナに武器供与をしたトピックについて、ゆえに、それほど僕は驚かなかった。このときの語らいがあったおかげかもしれない。
* * *
スターリンは狂人であった。結局、そのことはなんら驚くに値しない。気の狂った統治者はいくらでもいて、ロシアでもかなりの数にのぼり、イワン雷帝も、あるいはパーヴェル一世もそうであった。古代ローマのネロ皇帝もおそらく狂人であったろうし、イギリスでは、ジョージ何世かが、やはり気がふれていたと言われている。それだから、この事実そのものは驚くに値しない。(『ショスタコーヴィチの証言』)
わざわざ僕が書くまでもないことだが、国連常任理事国でありながら安保理協議が行われている最中に宣戦布告した時点で、これは世界秩序に対する重大な挑戦であり、ウクライナ東部に住むロシア系住民の保護を名目としておきながら正規軍を用いて全面軍事作戦を決行した段階で侵略としか評価できない事象であって、ロシアを擁護できる要素など何一つとしてない。真珠湾の奇襲なく東京に焼夷弾を落とすようなものだ。2月24日以前のアメリカ、NATO、ウクライナの動きに、たとえ褒められたものではない例があるにしても、それらの対抗措置としてロシアの行動はまったく釣り合っていない。2月24日以降、お互いがどのようなプロパガンダ戦を繰り広げようとも、それらを考慮する必要など一切ない。
ましてや、核のボタンを片手に世界を威嚇し、ジュネーブ条約に背いて原発を攻撃し、ショスタコーヴィチが交響曲にも描いたバビ・ヤールにあるホロコースト記念館を「ウクライナの非ナチ化」と言ったその口で爆撃している。開戦から一週間経った今日、戦況と同等あるいはそれ以上に、次から次へと開戦の名目もめまぐるしく変化している。支離滅裂である。プーチンの精神状態への懸念という報道もあった。もしくは「計算高く演出された狂気」ではないかと論ずる人もいた。しかし、本物の狂気と演出された狂気とに何の差があるだろうか。僕は兼好法師『徒然草』第八十五段の金言を思い出す。
狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば悪人なり。驥を学ぶは驥の類、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。(狂人を真似て大通りを走ったならば、それはもう狂人である。悪人を真似て人を殺したならば、それは悪人である。良い馬は名馬を真似て駿馬になり、聖人を真似る者は聖人に等しい。嘘でも賢人の道を真似るなら、もはや賢人と言って構わない。)
冷戦は間違いなく1989年12月に終わっていた。エリツィン時代には資本主義経済へと転換したのだからイデオロギーで争う理由もなくなっていた。冷戦の記憶がない世代にとって米ソの競争など過去の「物語」でしかなかった。が、ある種の人々は、冷戦という名の廃墟のなかに今なお生きていて、自らの宿怨を、新しい世代にとってはまったく新しい修羅の妄執を、死霊のように世界に残していく。未来人類のためにそれを断ち切ると決意した父母世代の知性と勇気を実弾でぶち抜いていく。なんという痛嘆すべき世界。だが、世界秩序の現状変更という誘惑は、ロシアのみならず、他ならぬ我が国の足元にも強く流れている。
* * *
2003年のイラク戦争が勃発した頃、反戦の意思をブログに書いた際、「音楽家は政治的な発言をするべきではないと思う」とメールをくれた先輩があった。その理屈なら、目の前で人が殺されていても黙って見ているのが音楽家としてもっとも中立だということになる。僕は腹が立ち、それきり疎遠になってしまったが、今ならどう反論するだろうか。
どう反論するもなにも、貴重な歴史と文化を伝える数百という吟遊詩人が銃殺され、ホロドモールで数百万人が飢え死に、侵攻してきたナチスにはユダヤ人が虐殺されたその血の上で、ようやく自分たちの主権を手に入れたウクライナの人々が、いま、再びロシアによって殺されている。何を言えば良いのか。殺すな、しか言えないではないか。
反戦を口にすれば子供でも老婆でも連行される専制主義国家と違って、我が国は自由である。自由なはずである。冷笑的に「日本で反戦と言っても意味がない」「ただの遊び」などと言い、賢しらに「どちらにも正義はある」などと言い、冗談でもスターリン時代のソ連の人々と同じく黙ってやり過ごすならば、我が国はそれとまったく等しくなる。プーチンの戦争を許すだけでなく、積極的に加担すらしている。ウクライナでの侵攻を許すならば、我々が同じことをされても文句は言えまい。いま自分が生きている場所で、たとえ嘘でも、「傷ついた人々のそばに立つ」と口にする意義は、有り余るほどあるのは自明である。
* * *
どのような形で可能なのか、いつになれば可能なのか、今はさっぱりわからないが、乗り掛かった舟である。相談された1月の頃とはまったく違う意図をもって、僕は必ずやウクライナに音楽を届けに行きたい。僕は僕に可能な形で連帯の意思を示したいと思う。航空代金であるとか、滞在費であるとか、作曲料であるとか、予定されていた収入はおそらくない。それでもやらなければならないと思っている。これをご覧の皆様で、もしこの趣旨に賛同してくれる方があれば、何かしらの形でお力を頂ければ幸いである。