2013年9月19日木曜日

交響曲の初演を終えて

 8月26日。交響曲の初演を終えた。
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 半月ほどが経ち、ようやく、この作品に対しての「賛否両論」の両方の論を読むことができた。人の意見というものは、やはり自分の鏡になる。それは、人の好き嫌いに合わせるということではない。好き、と、嫌い、の両者が、どれほど同じ事象を取り上げているのかが、僕にとっては重要だ。
 僕だって人間だから、好きだと言われれば嬉しいし、嫌いと言われれば、やはり悲しい。ただ芸術は多数決の議会ではないし、僕は世論調査の集計係でもない。人それぞれが人それぞれに自分の好きな芸術を味わえば本来それで良いはずで、酒の飲めない人に酒を勧めたり、シイタケの嫌いな人にシイタケを勧めるのは、良いことではない。
 エノキやナメコなど、シイタケが嫌いな人も食べられる別のキノコになりたくても、残念ながら、シイタケとしてこの世に生えてしまった以上、自らの姿も、味も、変えることができない。ますます立派に傘を開き、胞子を大量に振りまいて、ますますシイタケ嫌いに嫌悪されるしかない。
 繰り返し、まことに残念ながら、それが成長というものである。
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 さて、今回。僕にとって大きな収穫だったのは、賛否の両方が、まさにまったく同じキーワードを取り上げて、それを片方は是とし、片方は非としていたことだった。その単語は当日配布のプログラムノートにも記載されていない。彼ら独自の考えのはずだ。
 主宰者に依頼され、舞台に乗る演奏者向けに用意した文章というものがある。僕はそこで、それとまったく同じキーワードを用いて、演奏者にこの作品の意図を説明していた。僕はこの一致を非常に嬉しく思うのだ。小鉢に盛ったシイタケの煮物を、聴衆はみな、それはシイタケである、と、答えたのである。会場にいた人々に誤解なくテーマを伝えることができたのだと、僕は理解している。
 シイタケ好きの方に感謝しているのは言うまでもない。残さず食べてくれて、どのように下ごしらえをしてどのように煮たかまで指摘してくれて、これは作り手の冥利である。だからこそ余計に、シイタケ嫌いな方に、僕の作品を正しく受け取ってくれたことを感謝しているということをお伝えしたい。あなたのような存在が、僕の今後の指針になるのである。
 これは嫌味で言っているのでも、エキセントリックになって言っているのでもない。(壮絶な嫌味なんて言うのは実に簡単なのだ。刃物を抜いて相手の急所を刺せばそれで終わりだ。それが何の生産になろうか。)指針とは文字通り、字義通りの意味である。賛否の賛だけであれば、もしかしたら過大に評価してくれているのではないかという想いと、彼らに対する甘えとを僕は捨てきれない。否の方がまったく同じことを言ってくれたおかげで、僕は自分の足跡を正しく確かめられたのである。
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 音楽は、音という、まさに抽象以外の何物でもない材料で、耳という、まことにいい加減きわまりない臓器に訴えかける芸術である。そんなものを作るのは信じられないほど面倒くさい。とんでもない分野を選んでしまったものだと後悔しきりである。みんな先に言ってくれたら良かったのに。でも、ここにしか自分の人生がないことも、もう分かっている。
 僕はどう転んでも、現代日本の、ひとりの若者(今のところ)である。偉大な音楽の先人たちを尊敬はしていても、僕が現実に味わい、愛しているのは、この現代、この日本におけるひとりの若者(今のところ)としての生活である。僕は、それ以外の生活を、知らない。僕にとってそれ以上に大切な生活を、知らない。僕は残念ながら、バッハでもハイドンでもモーツァルトでもベートーヴェンでもブラームスでもない。西澤健一という名の、チャラそうな、男である。
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 最後に、この大事な機会を与えてくれたクライネス・コンツェルトハウスの皆様と、主宰の小澤氏、陣中見舞いに野菜を送ってくれたU氏、そして会場の皆様方に、改めて、感謝を申し上げます。