鎌倉仏教のひとつ、時宗の開祖・一遍は、死のひと月前の朝、阿弥陀経を読誦ののち自らの所持する書籍等をすべて火にくべて、「一代の聖教皆尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言ったと伝えられている(『一遍上人語録』下巻・門人伝説106)。
平安時代の僧・空也の金言「捨ててこそ」を座右の銘とし、「衣食住の三は三悪道なり」(同75)と断じ、住所を構えず、念仏に踊り、人々に札を配り続けること15年半、日本全国を遊行し尽くした果てに、摂津の地で斃れた。熱狂者の生涯だ。
書籍を燃やした日の朝は気持ちよく晴れていただろうか。ぱちぱちと焚き木のはじけるほか何の音もしなかったかもしれない。言葉という言葉が一筋の煙となって青空に昇り、透明になっていく。空の高さと、ただ吹く風と。火の傍らに立つ、やせ細った晩年の僧…。超人めいた空海に勇猛な日蓮など、仏僧の物語は威勢の良いものも多いが、得体の知れない悲しさに胸がしめつけられるような思いをしたのは、一遍のものが初めてだった。
若かりし僕に一遍を教えてくれた柳宗悦『南無阿弥陀仏』(岩波文庫)の巻末に、晩年、体が不自由になってから作られた短文集『心偈』が収録されている。カットは棟方志功だ。棟方と言えば、僕のような世代のものにとってはテレビに出てくる「変なヒト」という印象が抜けない。が、本書を読んで、数枚のカットを見て、考えが変わった。2018年、谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』をオペラに書いている際、棟方の装幀と向き合ったことで、はっきりと尊敬に変わった。
今回、熱狂者・棟方を偲びに青森を訪れて、思いがけなくも、人が言葉として透明になっていくということを我が身のこととして感じる機会を得た。ゆえに(青森とは直接関係ない)一遍の話を引いたのだが、まずは、三沢市到着の朝から語る。
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閑古鳥の鳴く東北新幹線を降り、八戸で青い森鉄道に乗り換え、三沢駅へ。冷ややかな風が明らかに東京のそれと違う。腰に巻いた上着を解いて肩に羽織った。北欧の夏のようだ。
人っ子ひとりいない駅ビルの階段には「ソーシャル・ディスタンスにご協力ください」という張り紙が見えた。人と会わずに引きこもってきた中年男が、夏休みに入る前の平日に、人のいない場所を個人的に旅行しているわけである。時節柄とは言え、複雑な心持ちにもなる。
駅からタクシーで二十分ほど。小河原湖の岸に沿ってフェンスに覆われた道路が走っている。広大な米軍三沢基地と、ささやかな軍人用ビーチ、熱心に軍用機を撮影するカメラ小僧を見送ると、「市民の森公園」の一角に、渋谷の天井桟敷館を思わせる例の顔が壁面に埋め込まれた三沢市寺山修司記念館が見えてくる。人の気配がまるでなく、営業しているのかどうか気が気ではない。
僕にとって寺山は羨望の対象だった。ひとつに、前衛やアングラがもっと社会の近くにあった時代の、その中心で、スターとして生きていたこと。どちらの言葉も消えてしまった今の時代にあってはもう望めない生き方だ。ふたつに、青森という故郷に強烈に根を張っていること。映画『田園に死す』における新宿駅前の使い方は、少なくとも、新宿の子である僕には発想できない。
館内は主に常設展示室と特別展示室の二部屋。常設展示室中央には十脚ほどの机が並んでいる。各々それらの抽斗を開け、懐中電灯で照らしながら覗き見るという凝った作りだ。恥ずかしながら今まで知らなかったことも知れたのは収穫だった。カルメン・マキの歌は知っていても、五木ひろしの歌う古賀政男作曲の歌もあるとは知らなかった。
特別展示室には「オリンピックと寺山修司」と題された企画が展示されていた。東京五輪に合わせたスケジューリングだったのだろう。今や世界は祝祭どころではない事態となったが、こちらの展示も祝祭の雰囲気とは程遠いものだ。なにしろ、『青少年のための自殺学入門』の原稿、カミソリで頸動脈を切り自ら命を絶った64年東京五輪マラソン銅メダリスト・円谷幸吉選手に触れた部分のそれが真っ先に目にとまる。備え付けのラジカセからは、修司が録音し繰り返し聴いたという「円谷あと80メートル!」の中継も流れていた。
僕が6年前に書いた歌曲集『自殺者たち』は、当初、円谷の遺書を念頭に着想されたものだったのをふと思い出した。もっとも円谷の言葉はどうしても僕自身の言葉となるには至らず、芥川や太宰といった4人の本業作家の遺書に置き換えられたものの、夏目漱石『こころ』の、Kの遺体を発見する先生のくだりを曲集の最後に置く構成は、それこそ「自殺というよりは他殺であった」という寺山の評への連帯として、初めから企図されたものだった。
寺山は羨望の対象だったから、自分に近いものを感じてはこなかったのだけど。思わぬ形で原稿を再読するうちに、僕の考えが変わり始めた。自分の内側にある寺山的なものを意識し始めた。
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校倉造りの特徴的な建物は残念ながら補修の最中だった。中はこじんまりとしていて広くはない。展示室に入ると、かの有名な『二菩薩釈迦十大弟子』が一面にあって圧倒される。この時期の僕にとっては幸いなことに、ここも、他の客が一人もいなかった。
『瘋癲老人日記』をオペラに書いている際、棟方志功の装幀が僕のイメージを豊かに膨らませてくれたのを覚えている。顔の造作は詳細に描かれず、少し尖った乳首の目立つ颯子の姿。指先にある丸いものは体よく手に入れたキャッツアイの指輪なのか、しかしその手は来迎の印相のようにも見え、もはや通常の方法では叶えられない性欲と、死後の救済とが渾然一体となった影法師…なるほど督助にとって、あるいは谷崎にとって、女体とはこういうものであったのだろうことが、わざわざ冒頭で「(女体に限りなく近い)男体」である女形との記憶を明かしている理由が、文章だけでは伝わらない部分が、掴めたのだった。棟方にとっても、女体とはそういうものだったかもしれない。館内に展示されていた『湧然する女者達々』を観ながら、そんなことを考える。
ニューヨークなど海外で手掛けた作品が展示されていたのが面白かった。Sの字などが鏡像にひっくり返っているのに愛嬌がある。なにより声が漏れたのは、ゴッホ『ひまわり』の模写2点。「わだばゴッホになる」の宣言どおり、ゴッホになるための訓練の痕跡というわけだ。が、御本尊ゴッホとは決定的に違う性格のある部分が油絵具となってにじみ出ているのを認めると、僕のなかに少しだけ嫉妬心が湧いた。僕はこんなに楽しそうに模写などできそうにない。
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十和田湖に着く頃には雨が止んでいた。ほとりに鎮座する十和田神社は今まで見てきた神社の中でもっとも静謐な佇まいを持つもののひとつだった。修験の霊場だったというが、霊場という言葉は確かにしっくり来る。湖岸には高村光太郎最後の作品『おとめ像』もあった。この日だけで、現代の美術と明治の人の彫刻をハシゴしたわけである。
それにしても、ここでは芸術をいっそう身近に感じる。美術館の数が多いというのもあるけれど、それなら東京のほうが数は多いに違いない。だが、多いは多いのだが、ものの十数分で見に行けるのだが、身近という感じがしない。どうしても街に必要なものとして扱われているように感じないのだ。
奥入瀬のホテルに寄り、敷地内にある岡本太郎の河童を拝見させてもらった。青々とした草に遊び、雨に戯れる像。誰もいないし誰も見ていない孤独な像なのだが、核廃絶を訴える『明日の神話』が通りゆくすべての人々にことごとく無視されている渋谷マークシティに比べたら、生き生きとして、幸せそうに見える。どうしてもここにいなければならない理由を感じる。
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三沢から乗った快速しもきたは一両編成で、混雑しているというほどではなかったけれども、人はいた。陸奥湾を左手に北上し下北駅で降り、一日3往復しかないバスに乗る。換気のために窓を開けようにも、錆びついているのか、なかなか開かない。車内放送で民謡らしきものが流れているようだが、エンジン音が勝り、まったく聞こえない。急勾配の曲がりくねった山道に40分ほど揺られると、ほのかに硫黄の香りがしてくる。恐山である。
本堂を参拝し、本堂裏から宇曽利湖を見渡す。色らしい色の無い一面の岩石だ。モノトーンの世界にはところどころに硫黄の黄色が差され、賽銭は青色に変じ、ピンク色の風車がそこかしこでからからと回り続けている。ただただ風が吹き、ときどきカラスが鳴き、温泉がふつふつと湧き出している。それより他に音らしい音は無い。
大祭の日には様子も違うと思うが、観光客らしき人はあまりいない。石を手に持ち「やべえ」と声を上げている若者3人組は、もちろん興味本位の奴らだろう。腰の曲がった老婦と孫と思しき女児が供物の入った袋を手に参拝しているのは、地元の人だろう。そう見ると、地元の人々が三々五々と確認できる。新盆だからだろうか。中高生くらいの女の子3人組が、袋いっぱいの風車や菓子の類をお供えしながらおしゃべりしているのが風に乗ってくる。青森のアクセントは鳶や梟の歌うようで、美しい。
八角円堂を覗く。名札を貼られたわらじ、スーツなどの遺品、名前を与えられるより前に旅立たなければならなかった命を記した木札が地蔵菩薩の脇にたくさん供えられている。ここにあるひとつひとつのものが、ひとつひとつの死であったことを思う。つい先日、僕もひとつの死を見届けた。ここにある死の数だけ悲しみがあっただろう。お地蔵様はたいへん素朴な立ち姿で、黙って合掌している。故人の冥福を祈る遺族の言葉を、ここで黙って聞き続けている。
むしろ人々の悲しみが地蔵菩薩の姿として結晶化したのかもしれない、と思った。生きていく以上悲しみは避けられず、死んだ人を蘇らせることもできない。しかし、悲しみを悲しみとして共に受け止めてくれる存在があるだけで人はどれほど慰められるだろう。ただ人々の悲しみのそばにいる。その行いはどんな奇蹟よりも人を救う。その行いをするすべての者の名を象徴するものとしてのお地蔵様だ。千年前から、千年後も。すべての命が再び大地に飲み込まれるときも、お地蔵様は共にいてくれるだろう。この山にいるお地蔵様はすべて、そういう凛とした決意のある顔をしている。生まれてはじめて、宗教のものを見て「ありがたい」という心が起こった。
興味本位の若者3人組はさっさと帰ってしまったようだ。参拝を終えた地元の人たちもほとんど帰ってしまった。門前の土産屋と蕎麦屋は昼過ぎには閉まった。静かな湖の岸に立つと、不幸な事故で失われた若者を偲ぶ碑があった。遺族や友人たちがこの碑にどれほど言葉をかけたことだろう。ふと、東日本大震災供養塔から鐘の音が聞こえた。鐘の音は山々に鳴りひびき、そして消えた。「一代の聖教皆尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ」の言葉を思ったのはこのときだ。
80年代から90年代にかけて、恐山はバラエティ番組であまりにも面白おかしく色付けされてしまった。大切な伝統文化を胡散臭いオカルトとして消費してしまった。僕もその世代に育ったから、実際に参拝するまでそういうイメージが頭の片隅にあったのを否定できない。そんな我々の、まったく恐るべき軽薄さに比べ、宇曽利湖畔のなんと静かなこと。なんという純粋な悲しさの結晶。
死んだ人は言葉になるのだ。と、寺山修司は言った。すべての具象を離れ、抽象になっていく。透明になっていく。人は圧倒的な力で透明になってしまう。圧倒的な力に耐えられないからこそ、我々は時に軽薄にもなって自分を誤魔化しもする。その根源にあるのは、得体の知れない悲しさ。悲しみこそ人間の感動のなかでいちばん大切なものだと棟方志功は語った。悲しみを純粋に悲しみとして悲しむ強さに浴し、混乱の時代に住まう僕の心は、少し、軽くなったような気がした。
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書ききれませんが、今はここまで。今度は弘前や五所川原にも、Covid-19が落ち着いた暁にはねぶたの季節にもお邪魔したいものです。なお、僕が2メートル以内の距離で接触したと言える青森在住の方は文中のYさん1人のみで、文中の奥入瀬の食堂(これしか選択肢がなかった)以外の食事は、もっぱらお弁当、駅自販機のパン、ドライブスルーのお寿司など。極力、人との接触をしないよう留意したことを書き添えます。さすがに味気なかったので青森食もリベンジしたいです。