ポーランド系の名を持つ生粋のウィーンっ子、ジーツィンスキー。彼の名を知らなくても、ひとたび旋律を聴けば、名テノールの熱唱や映画の挿入歌でお馴染みのあの曲だとわかる。「ウィーン、ウィーン。おまえだけが、いつまでも私の、私の夢の街なのだ」という歌詞は作曲者本人によるもの。作曲された1914年は第一次大戦の真っ只中。故郷へののどかな愛着と、勇敢で激しい愛国心とが入り混じり、混迷をきわめていく時代背景を感じさせる。
グラナドス:スペイン舞曲第5番「アンダルーサ」(祈り)op.37-5
19世紀末のバルセロナで活躍した作曲家、グラナドス。ピアノの名手でもあった彼の青年時代に書かれた12曲からなるピアノ曲集「スペイン舞曲集」の一曲であるが、即興的で情熱的、異国情緒豊かな色彩が多くの音楽家の心を捕らえ、様々な楽器のために編曲されていった。今日では彼の名刺となっている。イスラム時代の遺跡や街並みを想像させる「アンダルシア風」を意味するこのタイトルは、しかし作曲者本人ではなく、出版社によるものであるという。
ドビュッシー:月の光
ドビュッシーの人気曲「ベルガマスク組曲」の第3曲。前奏曲、メヌエットとパスピエという音楽用語でまとめられた曲集のなかに、ただ一曲、詩的な標題で挟まれる。ポール・ヴェルレーヌの詩集「艶なる宴」の一篇「月の光」から採られたものであるという(「ベルガマスク」の語もこの詩中にあるものだ。イタリア北部ベルガモ地方の踊りと訳される。)幸せを信じられない者の歌。仮面の下に隠された悲しみは、穏やかな月の光に溶けて、浄化される。
サルツェード:夜の歌
フランス出身のスペイン人、アメリカに活動の場を求めたハープ奏者であったサルツェード。彼の発案による特殊奏法はその後のハープ奏者や作曲家たちに大いなる影響を与えた。爪で弦をこすったり、楽器の胴を叩いたり。とかく新奇で難解な印象を与えがちな特殊奏法だが、この「夜の歌」では、それらがどこまでも細やかな表情で美しい旋律を切々と紡いでいく。まるで小洒落た酒場で爪弾かれるギターのような、静かで愛らしい音楽だ。
モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 Kv.364
複数の独奏楽器と管弦楽とが交代しながら進められる「合奏協奏曲」というジャンルがバロック期によく利用されたが、少し時代を下り、より華やかに協奏曲の技術が取り込まれた「協奏交響曲」に発展して、パリやマンハイムに流行していた。モーツァルトはこれに並々ならぬ関心を示していたが、しかし多くを手がけなかった。この曲は、その数少ない完成された一曲。彼が作曲したすべてのヴァイオリン協奏曲よりも後に作曲されているためか、ヴァイオリンの書法の充実ぶりもさることながら、より鮮やかな色彩を浮き出させるためにヴィオラは半音高く調律するよう指示されており、素材の上でもヴァイオリンとまったく対等な立場を与えられているにも関わらず、2つの楽器の性格は明確に対比され、華麗ながらも陰影を帯びた彼一流の表現となって結実している。第1楽章、アレグロ・マエストーソ。第2楽章、アンダンテ。第3楽章、プレスト。
シューベルト:交響曲第2番 変ロ長調 D125
「魔王」や「野ばら」など、今日、人々がシューベルトを思い出す際に必ず触れられる歌曲を作曲したのは、1815年。この交響曲第2番も、彼がまだ18歳であったその年に書かれている。神学校を去り、代理教員として働き始めていた頃だ。作曲の動機は今となってはわからない。しかし彼の通っていた神学校にはアマチュアながら比較的大きな規模のオーケストラがあり、おそらくはそのような私的な演奏会のために書かれたのであろうと推察されている。モーツァルトやベートーヴェンという彼の憧れの大先輩たちの素材に胸を借り、戯れながら、彼は彼の個性を育んでいる最中だったようだ。どんなに快活で明るい開放的な少年であっても、突然仄暗い音を迷わず選んで書くあたり、「未完成」や「グレート」など後の成熟した彼を知る私たちが聴くと、思わず驚いたり、微笑んでしまうような場面が少なくない。第1楽章、ラルゴの序奏から主部アレグロ・ヴィヴァーチェ。第2楽章、アンダンテ。第3楽章、メヌエット(ほとんどスケルツォのようだ)、アレグロ・ヴィヴァーチェ。第4楽章、プレスト・ヴィヴァーチェ。