僕は追悼記事を書かない。
どんなに思い入れが深い方が亡くなっても、あまり書かない。人の死につけこんで書くことは自己顕示欲以外の何物でもないというか、なにかいやらしいことのように思えるから、普段は書かない。それでも宗旨替えして今からそれを書こうとするのは、同年代だからというのが一番大きな理由だ。それ以外の理由を、以下に書く。
サクソフォニストの堀江裕介君が亡くなったという話だ。
あまりの急な出来事に僕は我が目を疑って、堀江裕介という名のサクソフォニストが他にいないか、移動時間の1時間ほどをスマートフォンで検索して過ごした。どうやら僕の知っている堀江君らしいことが確定的になって、反射的に、何かをどこかに書こうとしたが、その強い欲求と裏腹に、まったく言葉が出てこなかった。言葉と言う言葉が封じられるにつれ、僕はじわじわと、またじわじわと打ちひしがれていった。
僕よりもっと彼に近しい人はもちろんおられるわけで、ご家族や、学友や、同僚、あるいは生徒さんたちからしか見えない彼の顔が当然ある。住んでいる場所も遠いから、酒を酌み交わしたことも2回しかない。だから、僕は執筆者にふさわしくない自覚がある。また、これから書くことも、自分で書くようなことではない。何をうぬぼれているのだ、という内容になる。でも、きっと僕にしか書けないことでもある。恥を忍んで書いておきたい。
* * *
この曲は、大学院の修士演奏の選曲に頭を悩ませている時に、師匠の雲井雅人先生にご紹介いただいたのが出会いだった。西澤さん本人に楽譜を送っていただき、とりあえずまったく音源も聴かずに、サックスのパート譜だけをただなんとなくなぞって吹いてみると、そこに現れた不思議な世界観に動揺した。単純な単旋律に、これだけ心動かされたのは初めてだったかもしれない。
僕のサクソフォン・ソナタを取り上げた2010年10月のリサイタルのプログラムと、その録音のCDRを送ってきてくれたのは2011年だった。僕はちょうど引っ越ししようという頃で、荷造りをして、荷を積んで、荷をほどいて、ダンボールの山を捨てて、一息ついたところに東日本大震災があって、そんなタイミングが重なり、どこかに紛れ込んでしまった彼からの封筒は、未開封のまま半年ほど放りっぱなしになっていた。
1楽章冒頭にピアノで奏されるモチーフが3楽章冒頭ではサックスで再現され、それはまるでギリシャ神話でナルキッソスが泉水に映った自分の顔に陶酔していくかのようで、曲全体をある種のナルシシズムが包んでいるようにも感じる。(『Elegy 堀江裕介サクソフォンリサイタル』プログラムノート/2010.10.30)
大掃除をしている最中にそれを見つけ、すぐさま平身低頭して感謝と謝罪のメールを送り、封筒をあけてプログラムを読んだ。そういえば、リサイタルの前にも律儀な連絡があった。プログラムノートの執筆を頼まれたが、「もう10年前の作品だから自由に書いてくれて良い」と返事したのを覚えている。が、ナルキッソスまで登場するとは思っておらず、なんだか気恥しくなって、ふと目を上に逸らした。と、そこには「そういえば先月で31歳になったんだった」という一文があった。僕はその頃33歳で、つまり、そんなに歳は違わなかった。彼の見た目が若々しいのもあるが、僕は勝手に、もっと年下かと勘違いをしていた。
時が巡り、知己の紹介で、名古屋で演奏する機会を得た。すぐさま思い出したのが彼の存在だ。録音も聴いているから、安心して任せられることを知っている。自分の過去の不義理を恥じながら恐る恐る共演を打診してみると、半年も返事をしない僕と違って、彼の返信は30分とかからなかった。明和高校の校舎でリハーサルしたときも彼は律儀だった。僕のほうが頼んだ仕事なのに、リハーサルのその場所だって彼が手配してくれたのに、むしろ彼のほうが始終恐縮していて、パート譜だけでなく、丹念に読み込まれた痕跡のあるスコアを手に、僕の持つ折り畳み傘の色あいを褒めたりなどした。
教師となってからもたくさんの生徒に西澤作品に触れてもらい、そのたびに例外なく大きな音色の変化が見られた。この音楽に相応しい音色というのは、そうゾーンが広くはない。みんな試行錯誤しているうちに驚くべき成長を見せる。西澤氏はリサイタルの録音を覚えていてくださり、それがきっかけで7年前に一度件のソナタ共演が実現した。作曲者本人のピアノにより、何を語らなくても僕自身の音も変わっていくように感じられた。(『Reborn 堀江裕介サクソフォンリサイタル』プログラムノート/2024.3.26)
リハーサルは各楽章を軽く2回通して終わって、僕は「もう大丈夫でしょう」くらいのことしか言わなかった。彼は「作曲者本人のピアノだと見えるものが違ってきますね」と言ってはにかんだだけだった。お互い何も言わなかったのである。
僕と彼とのコミュニケーションには薄い障子紙のようなものが一枚挟まっていて、結局、終生変わることが無かった。それは彼の尊敬の念から発せられるものであることに僕は気付いていた。正しく理解してもらいたいため言葉を続けるが、彼の発する尊敬は生身の人間に対するものではない。「歴史上の作曲家本人」という格に対するものである。それは彼の音楽に対する態度そのものだったのである。生身の僕はもどかしく感じつつも、どうしてもソナタを書いた歴史上の本人には違いないから、彼と僕との間に挟まる障子を、僕のほうから破ることはできなかった。
ただ、一度だけ、彼の側から障子に小さな穴を開けてきたことがあった。第二パルティータの編曲を依頼してきたときだ。彼はまず、ソナタ以外のサクソフォン作品の楽譜をすべて購入したいと申し出てから、この話を始めた。西澤さんは忙しいだろうから申し訳ない。残りの4曲はソロで演奏しても構わないから、せめてシャコンヌだけでも協奏曲版として編曲してくれないだろうか。そんな中途半端なことをするなら全部協奏曲にしたらどうだろうかと提案すると、「実は、西澤さんが引き受けてくださった場合のために」と、編曲料を提示してきた。それは、僕の基準では、シャコンヌ1曲のためだけには多すぎる額で、つまり彼は最初から全曲を想定していたのである。僕は上手く誘導されたわけだ。このときの、恐る恐る障子に穴を開けてくる様子は、僕にはとても可笑しかった。そして、その小さな穴から、彼という人間を僕の側からも少し理解することができたのだった。
たとえ今回のようなことが無くても、彼の第二パルティータは、僕にとって人生最高の音楽体験のひとつだったと言いたい。すでに完全無欠の形で仕上がっている原曲に僕が付け足した蛇足を、彼は必要不可欠のものと咀嚼し仕上げた。僕は彼とともにこの仕事をできたことをたいへん誇りに思っている。当の本人にも、打ち上げの席で、それに近い表現で僕の気持ちを伝えたのだが、するりとかわされてしまって、あとはどうでも良い話しかしなかったような気がする。謙虚さと含羞、それが彼の性質だった。
名古屋公演の終演後に、堀江先生のもとで僕のソナタを勉強しましたというサクソフォニストの卵たちにどれほど囲まれたことか。どれだけ僕のソナタを必要としてくれていたかが手に取るように分かった。もちろん僕だって彼に感謝の意を伝えてきたつもりでいるが、迂遠な表現でなく、もったいぶらずに、もっと直裁な表現で示すべきではなかったのか。そうだ、確かに僕は彼の分析どおり、たちの悪いナルシストなのである。彼もなかなかのかっこつけだったが、僕もそうだ。前後不覚に泥酔している友人たちとのエピソードを読んで、僕は嫉妬している。僕の前には、ぽつっと穴の空いた障子紙があるだけだ。この紙は僕から破いても良かったのではないか。後悔がつのる。
彼が音を出した僕の作品はもう一つある。2004年、畏友K先生のために個人的に書いた『サクソフォンのための14の練習曲とパッサカリア』は、長らくそのままになっていた。第二パルティータの前に譲った楽譜のなかの一曲であるこの作品を、彼は、第二パルティータ初演の直前に演奏会に載せていた。抜粋とはいえ、公開された公演の場で演奏されたのはこれが初めてである。長野県飯田市でのこの動画は僕しか見られない状態だった。「サクソフォンのための無伴奏のレパートリーは貴重なので、もっと上手く演奏できるようになったら改めて撮ります」と言っていたけれども、もうそれは叶わない。彼は彼で恥ずかしがるかもしれないが、彼が生きていた記録は、ひとつでも多く共有しなければならない。僕は僕で、自らの若書きの曲を公表するにはためらいもあるのだが、彼がこんなふうに演奏してくれるなら、きっとそれなりにうまく書けているのだろうと思うことにしよう。この動画を公開することが、この記事を書いたもうひとつの理由である。
僕はきっと、お別れの会には伺えない。そもそも、まだ僕はどこか信じきれていない部分があって、これを公開した途端に「西澤さん、冗談きついです笑」と返信が来るような心持がしている。そうあってくれることを切に望んでいるのだが。とは言え、僕だって人生の半分が過ぎていることは間違いない。いずれそのうち会えるだろう。そのときは、同等の格として、ひたすらワインを一緒に飲んだくれたりしたいものだ。
堀江君。その前に、できるだけ多くのお土産を用意するから、少し待っていてください。