2024年6月7日金曜日

偶然の積み重ね~管楽器作品個展について

 僕の音楽経歴は例外的である自覚がある。15歳で初めてピアノを習い、17歳で和声を勉強し始めて、それで音楽大学に行こうなどと普通は考えないものらしい。19歳でお勉強に飽き大学を辞め、20歳で作曲の賞を頂き、21歳には自分に飽きて作風を転向した。この頃の自分の行動には少々恨み言もあるが、なんでもすぐに飛びついてすぐに飽きてしまう自分の生来の性格から考えて、知人宅のピアノにしがみついて梃子でも動かなかった幼い僕に音楽を習わせようと考えもしなかった両親には、ある意味で感謝している。出会いの時期・周期が合わなければ、それで生きていくなどという蛮勇を僕は抱かなかったはずだ。

 埼玉某市の中学校に入学したとき、その学校では生徒全員必ず部活動に所属しなければならなかった。経験は無くとも音楽はすでに好きだった僕には、吹奏楽部だけが選択肢だ。生の楽器に触れられる初めての機会である。…いや、リコーダーがあった。クラスの友人と市のコンクールにも出た。10歳の僕が初めて経験した「舞台」だった。そのとき演奏した『スウェーデン・マーチ』の旋律を、30年後に、当のスウェーデンの地で誕生日の歌として聴くことになるのだから、人生は分からない。とにかく、教育用のプラスチックではない、金属、木材といった材質で出来ている楽器に触れられる初めての機会を得られるのだから魅力的だ。部には女子しかいないことだけが悩みだった。勇気を振り絞るために、音楽室に向かう廊下で小一時間ほど行きつ戻りつ僕の足は円を描いていた。

 オーボエを吹いてみたかった。N響アワーで視る「オーボエおばさん(故・小島葉子氏)」に憧れていたから。でも私立強豪校ではない公立の中学にオーボエはない。不本意ながら別の楽器をいじり、勧められたのがサクソフォンだったから、これを選んだ。以来、サクソフォンとは何かと縁がある。初めての渡仏の際にお世話になったのがたまたまサクソフォニストの清水容子氏だったのも、僕が初めて書いた管楽器のソナタが彼女の依頼によるアルト・サクソフォンのためのものだったのも、この曲が広く奏者に取り上げられ、さまざまな新しい出会いをもたらせてくれたのも、小さな偶然の積み重ねだ。

 ともあれ、僕の最初期の音楽経験は管楽器とともにあった。ブルグミュラーやツェルニーを弾く前にアルフレッド・リードやスウェアリンジェンを吹いて育った。と同時に、聴き手としてはストラヴィンスキーやアイヴズに始まりブーレーズやシュトックハウゼンといった課程を高校入学前に履修するので、僕は自分の来し方を説明するのに今でも難儀する。アマチュア向けの吹奏楽曲と現代音楽は、どうしても当時のアイドル文化には馴染めなかった僕に(今も馴染めていない)音楽を与えてくれたものとして等しく大切で、懐かしく感じるものだ。一方、ベートーヴェンの時代やリストの時代の面白さには大学を中退してようやく、大人になって気付いたのだから、ピアノを弾く同僚たちから見れば変則的な育ち方であって、例外的な経歴になるのも致し方ないことかもしれない。

* * *

 さて、今回の管楽器のための連作ソナタは、2001年の『アルトサクソフォン・ソナタ』から12年後の2013年、音大時代の同級生、木原亜土氏のために『クラリネット・ソナタ』を書いたところからスタートした。続いて2014年、『交響曲第1番』初演の際に知り合った斑目加奈氏のために『トランペット・ソナタ』を書き、2015年、ベルリン・フィルのクリストフ・ハルトマン氏来日に合わせて日本ダブルリード株式会社から委嘱を受け、『オーボエ・ソナタ』を書いた。その際には「ぜひサン=サーンスと同じくらい演奏される曲を書いてください」という、なんとも恐ろしい注文がついたのをよく覚えている。

 それが可能かどうかはともかく、クラリネット・ソナタに着手する前にはサン=サーンスの『クラリネット・ソナタop.167』を分析した。管楽器のための音楽を考える上で必ず振り返られなければならない作曲家なので当然のことだ。が、偶然にも、トランペット・ソナタを書く直前に仕事先でトランペットを含む奇妙な室内楽曲『七重奏曲op.65』を聴き、オーボエ・ソナタを書く頃は別件で『オーボエ・ソナタop.166』の譜読みをしていた。2016年には『ピアノ協奏曲第2番op.22』を室内編成に書き直す仕事もしたので、たまたま同時期的にサン=サーンスと多く触れ合っていたわけである。

 古典派の色香が残る1840年代から音楽活動を始め、ドビュッシーの死後も仕事をしていた彼の作品には、統一性という観点で考えればいろいろと不可解な部分がある。小節線を1本跨ぐと書法のスタイルが半世紀経ったり遡ったりするのだ。それがまるで不自然に聴こえないのがまた不思議で、どこまでも滑らかに、気付かれないように繋がれる。晩年になればなるほど、小節単位でなく1音単位に切り詰められ、彼のいったい何が上手いのかがいっそう分かりにくくなる。レパートリーとして楽しんでほしいという人の良さと、分かる人さえ分かれば良いという突き放した性格の悪さが同居したようなその書き方に、僕は強いシンパシーを覚え、志すべきはこういうことかもしれないと考えるようになった。

 もっとも僕の場合は今のところサン=サーンスほどの長命を得ていない。僕が使えるのは時代とエスニシティの違いだ。その実験として西洋的な形式に非西洋的な音程を、『クラリネット・ソナタ』ではアラブ歌謡の音程を、『トランペット・ソナタ』ではラテン音楽の音程を、オーボエ・ソナタでは南インド歌謡の音程を、トーンハレ響のマティアス・ラッツ氏のために2018年に書いた『ファゴット・ソナタ』では、浪曲からアイデアを得たオペラ『卍』を書き上げた直後だったこともあり、日本の伝統的な音程を流し込み、それらをできるだけ滑らかに繋げることを企図した。いずれもクラシック以外で僕が愛する音楽だ。

 サンフランシスコ響のキャロリン・ホーヴ氏のため2021年に書いた『イングリッシュホルン・ソナタ』と、今回初演となる『フルート・ソナタ』は、エスニシティよりいっそう時代にフォーカスし、19世紀的な形式に20世紀的な音程を、それと気づかれないように用いることを試みた。どのようにして用い得るのかについては、クラリネット・ソナタと同時期に書いた『交響曲第1番』で試みている。これは19世紀というよりむしろ18世紀の形式で書いたものだが、わずかに殻を残して中身をすべて入れ替えても、人の耳は形式・様式に沿って音楽を認識するという教訓を得た。この件についてはまたいずれ触れるかもしれない。

* * *

 作風を転向して以降、僕は自分が何を書きたいかよりも、今の自分は何をすべきか、何ができるのかを考え、作品を作ってきた。いろいろと手を尽くし上手く仕上がるほどに、滑らかで、意図の気付かれにくいものになっていく。すると、自分のしていることはひょっとして車輪の再発明ではないかと疑心暗鬼にもなる。が、転写逆転写にも偶発的なエラーがあって、変位し、枝分かれ、元の姿には戻らないのである。それを僕は「新しさ」と定義し、その繰り返しのなかに「今日の音楽」があると思っている。

 吹奏楽と現代音楽の遺伝子から生まれた変異株の僕は、10年かけて、新しい「レパートリー」を作った。ぜひご一緒に楽しんでいただければ幸いである。



西澤健一 管楽器のための6つのソナタ

2024年6月28日(金)19:00開演(18:30開場)
会場:中目黒GTプラザホール(目黒区上目黒2-1-3)
全席自由【一般前売】3,500円【当日】4,000円【学生】2,500円

【プログラム Program】
オーボエ・ソナタ (2015)
クラリネット・ソナタ (2013)
ファゴット・ソナタ (2018)
トランペット・ソナタ(2014)
イングリッシュホルン・ソナタ(2021)
フルート・ソナタ (2023・初演)

西澤健一(作曲・ピアノ)
庄司さとし(オーボエ)
木原亜土(クラリネット)
高橋美聡(ファゴット)
班目加奈(トランペット)
浦丈彦(イングリッシュホルン)
鈴木真紀子(フルート)

【主催】スタジオ・フレッシェ【共催】卍プロジェクト
【後援】目黒区【協賛】日本ダブルリード株式会社

【チケットお取り扱い】
ZAIKO(電子チケット)https://manjiproject.zaiko.io/item/362859
卍プロジェクト・オンラインショップ https://shop.manjiproject.com/items/84639497